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心にピン留め—新教養考③

「叱られ役」が江戸時代の大坂の寺子屋にいた。寺子屋の師匠がある子を叱ろうとすると、さっと別の子が師匠の前に出てきて、本当に叱られる子の代わりに叱られる。師匠は、叱る相手が当の本人ではないので、しっかり叱る。叱られ役は、自分のことではないので、師匠の注意を客観的に聴く。本当に叱られる子は、師匠と叱られ役のやりとりを横で聴きながら、猛省する。寺子屋のみんなは、そんな三人の姿を感じる。みんなが当事者になる。叱られ役は、定期的に交代して、みんなが叱られ役を経験する。すごい学びの仕組みが150年前まであった

陰湿ないじめが横行する現代社会と比べて、はるかに進んだ学びのシステムが江戸時代の大坂にあった。この寺子屋の学びの基本は、現代でいう教養だった。明治に入って155年。技術は進歩したが、失ったことも多い

1.教養と教育と勉強と学習は、どう違う

教養を考えるうえで、おさえておきたいことがある。教養って、つかみどころがないもの、そんなの趣味の世界のもの、余裕のある人の世界のもの、現役のわたしには関係ないという人が多い。本当にそうだろうか?小学校・中学校・高校の教育、学習、受験や資格取得などの勉強、いろいろな言葉がある。そもそも教養と教育と勉強と学習は、どう違うか?

「教養」とは、教えるに「養(よう)」と書く。なにを養(やしな)うのか?教養とは、頭を養うのでも、体を養うのではない。心と思想を養うのが教養。心を養う、考え方を養うプロセスが教養

「教育」は立派に「育てる」こと。体や頭脳を立派に育てるのが教育

「勉強」は勉めて、努力して、自分をモチベートして、強くなること。ああ疲れたから、今日はもういいかな…みんな、頑張っているから、もうちょっとやろうか…そんな条件下で臨むのが勉強

「学習」とは文字通りで、テキストがあって、それに習い、学ぶこと。

教養、教育、勉強、学習。字が違うと、意味が違う。しかし最近、なんでも一緒くたにするようになった。大雑把に物事を捉えるようになった。色も一緒。なんでもかんでも「青色」になったように

色も同じ。たとえば青色。伝統色の「群青色、み空色、瑠璃色、浅縹、千草色、藍色、浅葱色、舛花色、縹色、深縹、天色、紺青色」など、古代から様々な色を時間をかけて日本人はつくってきた。その色がつくられた行事、仕事、祭りなどの背景、文脈がなくなるなか、なんでもかんでもが「青色」という言葉でくくられていく。それぞれの色がもっていた「意味」が変わってしまう、無くなってしまう。それぞれがもっていた微妙な「違い」がどんどんそぎおとされ、バリエーションがいっしょくたになっていく

note日経COMEMO(池永)「なんでも「ヤバイ」、なんでも「すごい」、なんでも「青色」」

 2.教養は高尚なものと考えるようになっておかしくなった

あるとき、ある場所で、耳にした歌に、心を打たれることがある。これが、すなわち、教養である

その歌のなかにでてくるフレーズに、ある情景や風景が浮かび、自分の思い出とシンクロして、あっ、彼女を大事にしなければいけないなとか、自分だけの想いで突っ走ったらいけないなとか感じる

歌に励まされる、と言う。それ、すなわち、教養。和歌も短歌も現代の流行歌も、教養である。昔の人は、漢詩を、和歌を、古典を手習いで読んだ。これ、すなわち、教養であるが、 何を養ったかというと

心と思想

教養は、知っている・知らないというクイズ式の観点ではなく、何かを歌った漢詩や和歌を読んで、感じたことを、自分の心に留めること、ピンで留めておくこと

昔も現代も、教養のある人は、そうだが、何かあったときに、そのピンが光る。あっ、この気持ちは、今から1000年前のあの歌のこれに通じるなと、そのシーンが浮かぶ

たとえば、えべっさんのサイドストーリーとも言える蛭子(ひるこ)の和歌のシーンが心にピン留めされていると、弱い人をみんなが助け合っている姿を見ると、蛭子伝説が浮かぶ。可哀想な人を見ると、親に捨てられた蛭子に涙を流した人たちの気持ちを想像して、胸が張り裂けるようになる

「たらちねは いかにあはれと思うらん 三年に成りぬ足たたずして」

平安時代 歌人 大江朝綱

えべっさんが背負ってきたストーリーが大事。日本人が、「なにを信じて、どう生きてきたのか。どう救われてきたのか。いかに守られてきたのか」ということに、思いを致す。日本人が承継しつづけた、えべっさんの物語に、寛容と融和という日本人の心を観る。おそらくこの物語の源となったエピソードがあったのだろう。不具の子どもも、受け入れた。戒という字から、渡来人も受け入れた。日本人は、外から来た人々も、寛く受けいれ、つつみこみ、混ざり合っていった。日本人は
大切なことは、外から、異なる形で、やってくる
ということを伝えつづけてきた

note日経COMEMO(池永)「偏差値が5ポイント以上下がった日本」

その和歌を読んで感じた想いが、あなたの心にピン留めされていたら、目の前で起こっている事柄に、1000年前の人たちが取りあげたモチーフが再起動して、その時その場所でどう対応するのが自分にとっていいのかの判断がつく。それが、すなわち、教養

教養って、自分の心や思想を養うもの
それを備えているかどうか

その和歌を知っているというと、あなたは物知りだねと言われ悦に入るのではなく、1000年前の和歌を引き合いに出して今に通じる事柄を考えることができるかどうかが大切である。心にピン留めしていることがたくさんある人が教養人である

自分は大学の教養課程で日本の古典や伝統芸能を一所懸命に勉強していたが、まわりの友人たちは勉強もせずに遊んでいた。そんな遊んでいた連中が社会にでて、はしゃいでいる。そんな友人たちの姿を見て、彼らには教養がないと皮肉る。日本は教養のない国になったと嘆く人がいるが

その教養観は、正しいのだろう?

日本の古典を読んだり、茶道・華道を嗜んだり、能楽や人形浄瑠璃や歌舞伎をどれだけ多く鑑賞することもいい。しかし自分の心を養ったことがもっと大事ではないか。美しく優しい物語だけではなく、戦国武将の物語とか、悲しい物語とか、童話でもいい、歴史でもいい、小説でもいい、映画でもいい、歌でもいい、マンガでもいい。それらを読んだり観たり聴いたりするなかで、心に響き、感じたシーン、風景、会話、台詞、歌詞を、どれだけピン留めしているかが、その人の心の充実につながるのではないか

社寺や石庭や仏像や絵画や絶景を見て、スマホで撮影して保存したり、メモを書いたり、イラストを描いたりと、知識にする必要はない。見たものを見たままに、 優しいなとか綺麗だなとか美しいなと感じて、心にピン留めしているかどうかである。いろいろなピンが心に留まっている人が、教養ある人。何かに出くわしたときに、それまでにピン留めしていた知的基盤から、浮き出て、なにかを類推する。これができる人が教養がある人

教養とは動詞ではない、状態を表す形容詞、教養があるという副詞である。だから教養をつけるという表現は、おかしい。教養とは、教養があるというその人の状態を示すもの

教養は、めざしていこうとする「方向性」ではなく、結果としての「状態」をさす言葉

何が知性を左右するのだろうか
生まれながらの能力の差なのか
後天的な体験に引き出されるもの

教養を考えるうえで 、「知識論」に陥らないことが 肝要である

来週水曜日の新教養考④では、現代社会の大きな論点である「AIとはなにか?」を考えていきたい


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