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「まち2.0」のための「まつりづくり」 〜アクティビティから「まち」を再定義する

お疲れさまです。uni'que若宮です。

今日は「まち」というコミュニティのこれからについて書きたいと思います。


「まち」は「活動」の場へ

先日、三浦展さんの『愛される街 続・人間のいる場所』という本を読みました。

「ファスト風土」というパワーワードを生み出した郊外研究の専門家であり、『第四の消費』という本でシェアリングエコノミーについて10年も前から指摘していた三浦さん。この本は描き下ろしというよりはここ数年の講演やエッセイなどをまとめた本ですが、これからの「まち」のあり方としてとても参考になるとともに、このところの僕自身の興味関心ともばっちりあっていて、共感に溢れた本でした。


この本の中に、「まちの官能性」という話が出てきます。これはLIFULL HOME'S 総研が、いい街というのを人口とか乗降客数とかではなく、「官能性」から測ってみよう、というユニークな調査なのですが、その中に住民のアクティビティ(活動量)に関する話が出てきます。


ちなみに官能性指標は「関係性」と「身体性」を軸にした下記の8指標からなります。詳しくは「センシュアス・シティ(官能都市)・ランキング」をご覧ください。

--「関係性の4指標」--
・共同体に帰属している
・匿名性がある
・ロマンスがある
・機会がある
--「身体性の4指標」--
・食文化が豊か
・街を感じる
・自然を感じる
・歩ける

こうした「官能都市」ランキングで、全国トップが「東京都文京区」とのこと。僕も大学時代千駄木に住んでいたことがありますが、文京区はたしかに好きでした。

で、文京区には2つの特徴がある、と、LIFULL HOME'S 総研所長・島原万丈さんは言います。(以下強調はすべて引用者)

島原: おっしゃるとおりで、文京区の場合、ランキングを出すうえでの8つの指標の中だと、特に「共同体に帰属している」と「歩ける」のカテゴリー偏差値が高いのが特徴なんです。
文京区の評価で「歩ける」のほかにもう1つ評価が高かったのが、「共同体に帰属している」という指標。4つの項目のうち1つは、神社やお寺にお参りをしたとか、近所の飲み屋で、店主や常連客と盛り上がったとか、それから買い物で雑談したとか、そんな指標が入っています。
文京区は、お寺が非常に多いし、祠(ほこら)みたいなものが坂の上にポッと置いてあったりします。お寺にしても、日常的に通行路として使いながら、ふと手を合わせたりしている。京都の観光地のように入場料を払って入る、というものではなくて、生活に密着した存在として、文京区のお寺、神社が使われている。

三浦さんも「一見意外」ながらもこれに納得。著書の中では三浦さんの「西荻窪愛」もたびたび語られるのですが、西荻の魅力も「歩ける」「共同体に帰属している」という「まちでのアクティビティが多い」というところにありそうです。


「アクティビティ(活動量)」が重要な時代に

新規事業の文脈でもよく話すのですが、事業やサービスにおいても、「アクティビティ」がより重要な時代になってきています。なぜならそれは顕著にその「プラットフォーム(場)への愛」を表し、かつ強化するものだからです。

「どれくらいの売上があるか?」や「どれくらいの人が使っているか?」以上に、「そこでユーザーが起こすアクティビティ(活動量)がどれくらいあるか?」が重要なのです。そして「アクティビティ」には2つポイントがあります。それは「①受け身ではないこと」と「②他のユーザーや場に貢献すること」。この2つがそろっているととてもよいサービスになります。ユーザーがプラットフォームを成長させるために汗をかいてくれ、プラットフォームが成長するとユーザーへの提供価値があがり、と正のスパイラルになっていく。


名著『Hooked』に、「インベストメント(投資)」という概念があります。

この本が秀逸なのは、「トリガー(きっかけ)」→「アクション(行動)」→「リワード(報酬)」、というインセンティブ的な行動の最終プロセスに「インベストメント(投資)」を置いたことでした。リワードのための行動ではユーザーはいずれ飽きてしまいますが、自分の時間やお金を自ら「投資」すると愛着が強化されるのですね。AKB48や最近だとBTSのファンの熱量はまさにその典型です。

「まちでのアクティビティ」に関していうと、「ユーザー=市民」が、みずから他のユーザーや「プラットフォーム=まち」の魅力を高めるためにどれくらい活動をしているか、ということになりますね。そうしたアクティビティがあることでその「まちの一員」という意識が高まります。

買い物をするにしても、商店街で「おばさん、コロッケ」なんて言えてしまうし、飲み屋も、店主や客との距離が近い、カウンターだけの小さなお店が多い。こうした点が、この調査でいうところの共同体があるということですね。自分は本郷の人間だ、湯島の人間だといったふうに、“ここに住んでいる”という意識が芽生える。つまり、自分の中のアイデンティティの1つに、自分が住んでる街があるということです。

あなたとあなたが住む「まち」との関係はどうでしょうか?あなたはどれくらい「まち」でアクティビティを起こしていますか?

実は多くの人が家とオフィスの往復でまちが通り過ぎる場所になっていたり、「サービスを受けるだけ」になっていたりして、「まち」の中では意外にアクティビティを起こしていない事に気づきます。いや、でも渋谷とか新宿とかいくとたくさん買い物もするし、飲んだりもするよ?まちでアクティビティしているよ、という方もいるかもしれません。

しかしこうした従来の都市での活動は受け身の「消費」です。

「消費」においてはひとはそのまちに帰属したり、アイデンティティを感じたりはしません。単に消費対象の「コンテンツ(サービスや商品)」を求めているだけであり、それがあればどこでもよい、つまり「まち」が透明化しており、「まち」とのインタラクションがないからです。それは究極いうと、その「まち」でなくてもよい、ということであり、(アート思考的に言えば)代替可能性が高く、そのまち本来のユニークさのないコモディティになってしまっている、ということです。

ディベロッパーがランドマーク商業施設をつくりそのテナント誘致によって人を集めてきた都市や、観光の目玉として大きなパークをつくって人を呼ぶだけの地方都市は、「アクティビティ」観点でみると徐々に「オワコン」化してしまい、無理やりユーザーをつなぎとめようとしてガチャイベントを打ち続けるソシャゲのような消耗戦になってしまうでしょう。


「共」に向かう活動がまちを居場所にする

消費がなぜ本質的なアクティビティではないか、というとそれが「まちをつくる」ことに寄与していないからであり、それをする時ひとが「お客様」になるからです。

逆によいアクティビティは人を「まちにとっていなくてはならない存在」にします。いなくてはならない存在になる、そのことがそこを唯一無二の居場所にし、アイデンティティに組み込むのです。

ただ売っているものを買ったり、ガチャを回すような消費は、「まち自体」を特別なものにしないだけでなく、まちにとってあなたを「特別な人」にすることもありません。そこで人は「売上」の一部になり、交換可能な存在になってしまうのです。

スーパーマーケットでレジを何度通ろうとお互いに顔を思い出すことすらできないように、「お客様」として場と関わる時、その人の個性や顔は捨象されてしまいます。お互いに単なる機能の一部になるのです。「お客様」扱いすることは、そこが「居場所」にならないということなのですね。


「関係人口」という言葉をよく聞くようになりました。たとえば観光で来てホテルに泊まり、「お客様」として用意されたコンテンツを「消費」して帰っていく。しかし上記の通り単に「消費」として関係するだけの人口は、顔のない浮動的な人口でしかありません。その人がいなくなっても「まち」は困らない。「関係人口」を増やそう、という時、まだまだただ「お客様」を増やそうとしているまちも多い気がします。そして何なら住民すらも「お客様」としてサービスしようとしてしまっている。

これまでのまちづくりが一方向的な「web1.0」だったとすると、「まち2.0」にとって重要なのはUU(ユーザー数)よりもアクティビティです。「お客様guest」ではなく「共同ホストco-host」として「活動」できる、「共」の関係性を目指すことが重要ではないでしょうか。


「不便」がバリューになる

また、まちの価値を「アクティビティ」や「インベストメント」の観点からみなおすと、実は「不便である」ということが価値になりえる、ということがわかります。


特に「歩ける」という指標で1位なのは興味深い。というのも、文京区は、東京23区の中でいちばん坂が多い街。階段もごろごろありますよね。
そういう街が、「歩ける」街と評価されているというのは、近代的な都市計画が想定する「快適な歩行者空間」に対して、ものすごく重要なアンチテーゼを示しているように思います。
三浦:歩きにくい場所もあるけど、歩いて楽しいということですよね。

なぜか?それは、不便がアクティビティやインベストメントのための余白になるからです。これは、以前『破壊の学校』で鹿児島県の肝付町に行ったときにも痛感したことでした。

現地でその屈託のない笑顔を見て、本当に楽しそうに湧くその空気を一緒に感じながら、僕はその秘密が「してあげない」ことなんだと気付きました。
肝付町では、彼女たち(奇しくも「くらしの保健室」も男女比が14:1くらいでしたが)に、町が「なにかしてあげる」わけではないのです。
みなさんは自分の力で「くらしの保健室」に通い、自分たちでやることを決めます。祖母が通っていたデイサービスでは送り迎えもしてくれるし、プログラムも組まれていますから、それに比べれば、ある意味「不親切」です。
しかしどうもこの「不親切」が、彼女たちの生きがいにつながっているようなのです。

アート思考ではよく、「いびつさ」や「ユニークさ」についてに話しますが、それは「欠損と思われていること」の中にこそあったりします。多くの「まち」では「目玉」や「便利さ」ばかりを押しますが、それがかえってまちの魅力や、まちへの愛着を持つ機会を奪ってしまっている。サービスデザインでも「ノンストレス」であることが目指されてきました。もちろん、単なる「使いづらさ」は極力ないほうがよいでしょうが、「それ自体を楽しむ」ような「不親切」や「不便」の余白を消し去らないことも「官能的」であるために必要かもしれません(アート作品が「わかりづらい」といってなんでもかんでもわかりやすくしたり、説明を加えてしまうとかえって官能性をなくしてしまいます)


「まつり」をつくりたい

co-hostとしてまちに貢献する「アクティビティ」を増やすことは、「まち」と「人」のどちらもを「なくてはならない存在」にし、双方を代替不可能なユニークな存在にします。

こうしたことを考える時、これからの「まちづくり」は「便利な箱」をつくることではないということがわかります。僕はもともと建築をしていたのですが、あまり「箱」づくりには興味がもてませんでした。でも建築とは本質的には「箱」をつくることではなく「体験」をつくりだすことです。

これから人口が減り「箱あまり」していく日本で、SDGsの観点からも、箱を作らずに体験を生み出す「建てない建築」「見立ての建築」のようなことをやってみたいと思っているのですが、最近建築的な取り組みとして「まつり」をつくりたいと思っています。まちおこし的な「〇〇フェス」「〇〇芸術祭」とかそういうのではなく、ガチの「まつり」です。

馬喰町バンドのたけてつたろうさんが「“ゼロから始める民俗音楽”」というのを言っているのですが、これがすごく面白い。

建築行為として、「ゼロから始めるまつり」というのをやってみたい。まつりにはその土地々々の神話や伝説のようなコンテキスト、風土的なユニークさが凝縮されます。また、人はそこに「お客様」としてではなく「co-host」として関わります。

地域の民話をもとに独自のうたやおどりをつくったり、その土地の自然や気候を生かした楽器をてづくりしたり、シンボリックな法被を土地の技法を使ってデザインしたり、神輿や櫓、なんなら神話そのものをつくることもできるかもしれない。それらをすべてみんなで「てづくり」する中で人と人、人と「まち」がつながり、まちのアクティビティが増えていく。

それは「見せるためのまつり」ではなく、自分たちのための「まつり」です。

「まつり」というのは伝統的なものですが、ただ受け継ぐだけではなく「伝統は、つくれる。」かもしれません。今生み出されたものが伝統になり、ずっと残るなんてめっちゃわくわくしませんか?

これまで色々とワークショップを重ねてきて、ロジカル思考でもデザイン思考でもなく、アート思考ならそれができる手応えもあります。そしてそこから生まれる「まつり」はどれ一つ同じもののない、ユニークなものになるでしょう。

自治体の方、一緒に「まつり」をつくろりたい!と思っていただけたらぜひご連絡ください!!

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