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「先スプレイニング」に気をつけろ! 〜「良かれ」と「先回り」が潰す3つの機会

お疲れさまです。uni'que若宮です。

今日はちょっと子育てや教育から考えたことを書こうと思います。


街にはびこる「○○スプレイニング」

「マンスプレイニング」や「ホワイトスプレイニング」という言葉を聞いたことはあるでしょうか?

「マンスプレイニング」や「ホワイトスプレイニング」は「女性に対する男性(マン)」と「人種的少数派に対する白人(ホワイト)」と「explaining(説明する)」が組み合わさった造語です。

「え、説明してあげることの何が悪いの?」と思った方もいるかもしれません。しかしこの「してあげる」が曲者なのです。

これが「マン」や「ホワイト」と結びついていることも示していますが、「してあげる」「教えてあげる」という感覚をもつのは、「強者」や「マジョリティ」の側が「自分の方が優越している」という錯覚ないしバイアスをもっているからこそで、つまり相手を無意識に「見下している」ということが多いからです。


こうした「見下し」の構造は「強者」の場合に起こりやすいですが、必ずしも属性的な意味でのマジョリティだけのことでもありません。

たとえばこちらのエッセイでは山内マリコさんが「美容院のアシスタントの若い女性」に対して抱いたマンスプ的感覚を吐露しています。

訊(き)かれてもいない質問に勝手に答え、悦に入りながら長々と説明して相手を困らせる行為。主に男性が女性にやりがちなので、man(男)とexplain(説明する)がかけ合わされている。ネット時代に山のように出現した中でも、指折りの新語だ。
この言葉を知ったときは、「うまいこと言うもんだなぁ」と感心した。たしかにある種の男性は、とくに若い女性を無知と決めてかかっていることが多く、やや見下した調子で偉そうに語ってしまう、訊かれてもいないのに。彼らの気持ちが今わかった。説明したい! このうら若き女性に、ヌーヴェル・ヴァーグのこととか語りたぁ~い! 

山内マリコさんが「若い彼女」にしてしまったように、こうしたことは実は属性によらず、「先生」や「先輩」など自分が「先行者」である場合にやってしまいがちではないでしょうか。

そこでこうした事象を「先スプレイニング」と名付けてみます。


「良かれと思って」という、「先スプ」の誘惑

「先生」や「先輩」という言葉があるように、日本にはまだ「先」に生まれた人が「優れている」あるいは「正しい」という感覚があります。
もちろん、経験を積むことは一定のアドバンテージになりえます。しかし、これだけ変化の早い世の中になってくると「先んじている人」が必ずしも正解に近い、ということは減ってきます。むしろ「以前のやり方」や「かつての正解」に囚われている分、変化の時代に対応しづらくなっていることすらあります。(念の為いっておくとこれは年配者に敬意を払わなくていい、という話ではありません。尊敬は大事ですが、だからといってそれを盲目的に正しいとすることが敬意ではありませんよね)

ところが、今の時代のことを知っている子たちに対して、昔の常識と世渡り術を教えている人があまりにも多すぎるということなんです。僕たち大人は、うっかりしておくと、昔の教育しか受けていないんです。
情報収集をちゃんとしていないとだめで、この先の世界なんか見たこともないという人がいっぱいいるんです。この人たちが子どもたちに昔のやり方を教えちゃうせいで、今、子どもたちがすごい苦しんでいる感じをすごく私は受けています。

僕自身娘を持つ親ですが、つい「昔のやり方」を「先スプレイニング」してしまうことがあります。自分たちよりすでにその分野では子供の方が進んでいるかもしれないのに、「昔の常識」を教えてしまう。この背後には暗黙裏に、「大人」のほうが「子供」よりも優越している、というバイアスがあります。

「先スプレイニング」の難しいのは、それが悪意から起こるものではないことです。むしろ「良かれ」と思ってなされるのです。その分根深いし気づきづらい。

そして実はこれ、年が上だからだけではなくて、あらゆるところで起こるんですよね。自分が先に知っている領域だと、新しく入ってきた人に「教えてあげ」たい。男女も世代も問わず、自分が「先」だと思う時、人は「スプレイニング」してしまう。繰り返しますが「先」が「正しい」とは限らないにもかかわらず、です。SNSの投稿のコメント欄やリプライで本当によく見る光景ですし、僕自身オンラインでもオフラインでもうっかりやってしまって反省することがたくさんあります。根が「ロジカルくそ野郎」なだけに、気がつくと「先スプレイニング」しちゃっている…


「先スプレイニング」が潰す可能性

「先スプレイニング」にはさまざまな弊害があります。ここでは大きく3つの弊害を挙げたいと思います。

1)初心者の興味の機会を潰す
まずこうした「先スプレイニング」は初心者の興味の機会を潰す、というところがあります。あるあるですが、たとえばお店とかでも、一見さんにやたらうるさい常連っていますよね。「おいおい、その順番はちがうだろ」とか言って。もちろん、初心者ってわからないことも多くて不安なわけですが、そういう時にしたり顔でマウントされて恥をかくと最初の経験が最悪なものになってしまいます。彼は「二度と来たくない」と思ってしまうでしょう。

アートとかでもそういう残念さを感じることがあって、アートに興味を持知始めた人に対して「いや、アートはそういうんじゃない」とか言っちゃうことがあったり、SDGsやジェンダーのことでも先に取り組んでいる人が「初心者」に「いや(知らないと思うけどw)SDGsっていうのはさ」とか「先スプレイニング」してしまってたりします。

もちろん、まだそれが認知すらされない頃から「先」んじてやっていた人は今以上に苦労しているわけで、そのことは尊いことです。しかし「先スプレイニング」してしまうと…。せっかく自分が大事に思っているものに興味をもつ人が増える機会をわざわざ減らしてしまうわけで、本末転倒だと僕はおもいます。(「独り占め」しておきたいから他のやつは入るな、と思っているなら別でしょうが…)

2)相手の学びの機会を潰す
相手が失敗したり試行錯誤したりするより前に教えてしまうことは、相手の本質的な学びの機会を奪います。これは先回りしてゲームの攻略法を教えたり、映画の展開を教えてしまうようなもので、いくら「良かれ」とおもっても、本人の楽しみや成長機会を奪ってしまうのです。教育ではとくにこれに気をつけたいですが、本人が色々工夫してみているうちは、(多少失敗したとしても)黙って見守ることも大事です。言うは易し、でこの「黙って見守る」が想像以上に難しいのですが…

3)自分の学びの機会を潰す
そして同時に、相手の学びの機会を潰すのみならず、自分の学びの機会をも潰すことになります。「先スプレイニング」はある種のマウントでもあるので、それを受けた方はわざわざそれに対して意見を唱えず、すーっといなくなってしまうだけだったりします。僕自身、ちょっと自分が詳しい分野に関するSNSの投稿を見つけると、聞かれてもいないのにコメント欄に「あー、それは〜ですね。」とかしたり顔で書いてしまい、すーっと嫌われた経験が何度もあります。(しかも実は相手が圧倒的に自分より詳しい人だったりして…あとで反省するんですけどね…その時はいいたくなっちゃう)

また「先スプ」するということは「自分のほうが正しい」という思い込みがあるわけで、相手から学ぶ姿勢になりづらいのです。結果として学びや気づきを得る機会を失い、「裸の王様」になってしまう。


「先スプレイニング」しない「師」とは

でも、そんなこと言ってたら何も教えられないじゃん!と思いません?

そうなんです。このさじ加減、めちゃくちゃ難しい。何が「先スプ」で、何が有益なアドバイスなのか?一つには「本当に相手のために言っているか」というのがあるでしょう。

先程の山内マリコさんの記事から再度引用します。

訊(き)かれてもいない質問に勝手に答え、悦に入りながら長々と説明して相手を困らせる行為

ポイントは「訊(き)かれてもいない」と「悦に入りながら」です。この時って実は相手のことを思ってしているのではないのですよね。

先程例にあげたような「常連」もそういう振る舞いをしがちですが、「お、初心者かな?」と思ってもいきなり説明を押しつけずに基本見守っていて、困ってるようだったら周りに気付かれないようにちょっと合図を出してあげるとか、「わからないことがもしあったら聞いてね」というだけでもいいはずです。

しかし人は「先スプ」してしまう。もうそれは呼吸するように「先スプ」してしまいます。

これから起業しようという人をみかければ起業家は「起業とは…」と語り出してしまうし、大人は子供には「(君らはまだわかってないだろうけど、という決めつけとともに)社会はそんなに甘くない」とか言ってしまうし、SDGsに取り組み始めた企業に「いや、それはウォッシュw」とか言ってしまいます。その時、本当に相手のためを思って説明しているでしょうか?「悦に入りながら」相手を見下してはいないでしょうか?

教えることが悪いといっているのではありません。ただ、自分が「正しい」と思いすぎると偏見に気づかなくなってしまいます。「正しい知識」を「与える」のではなく、あくまで相手が自分なりの答えを見つけるための「触発」や「きっかけ」として置いてみる感じの方が相手のためになったりします。そしてその上で相手が自らの答えを見出すまで見守ることも大事です。自分の常識はあくまで自分の経験ではこうだった、という事例の一つでしかないかもありませんし、相手が見出す答えは自分よりも進んでいるかもしれない。

「先スプ」の誘惑はとても強く私たちはしばしばその罠にかかります。なので「先」にいる時にこそ注意する必要があります。

最後にニーチェの『ツァラトゥストラ』の一節をご紹介します。こんな風に「否定される師」をめざして子育てや教育を心がけたいと思っています。

弟子たちよ、わたしはこれから独りとなって行く。君たちも今は去るがよい、しかもおのおのが独りとなって。そのことをわたしは望むのだ。
まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたかもしれぬ。
認識の徒は、おのれの敵を愛することができるばかりか、おのれの友を憎むことができなくてはならぬ。
いつまでも弟子でいるのは、師に報いる道ではない。なぜ君たちはわたしの花冠をむしり取ろうとしないのか。
君たちはわたしを敬う。しかし、君たちの尊敬がくつがえる日が来ないとはかぎらないのだ。そのとき倒れるわたしの像の下敷きとならないよう気をつけよ。
君たちは言うのか、ツァラトゥストラを信ずると。しかしツァラトゥストラそのものになんの意味があるか。君たちはわたしの信徒だ。だがおよそ信徒というものになんの意味があるか。
君たちはまだ君たち自身をさがし求めなかった。探し求めぬうちにわたしを見いだした。信徒はいつもそうなのだ。だから信ずるということはつまらないことだ。
いまわたしは君たちに命令する、わたしを捨て、君たち自身を見いだすことを。そして君たちのすべてがわたしを否定することができたとき、わたしは君たちのもとに帰ってこよう……

※後日談追記※
この記事をきっかけにログミーBizさんでトークイベントを開催いただきました。↓も合わせてどうぞ


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