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多様性 = ちがい × 選択肢 〜ダイバーシティとアート思考

お疲れさまです。uni'que若宮です。


2月はたまたま、ジェンダーに関する登壇・講演が続きました。

そこでお話しした中で、改めて「ダイバーシティ」について考えたので今日はそのことを書きたいと思います。


「多様性」の第一項は「ちがい」

ジェンダーやダイバーシティの話をした時、一見正反対の2つの意見を聞くことがあります。

1) 女性も男性も平等なのだから区別するのはおかしい。同等に扱うべきだ
2)女性と男性はちがうのだから、扱いもちがって当然だ


僕はダイバーシティの「第一項」は「ちがい」にあり、「ちがい」を知ることはダイバーシティの第一歩だと考えています。

ちょうど先日、コラムでこんなことを書きました。

こんなふうに「女性は」「男性は」という言い方をすると、男女で区別するのはよくない、それが差別につながる、という意見もあるかもしれません。しかし僕は、こういう「ちがい」について学ぶことは「まずは一歩」としてやっぱり大事だと思っています。
ジェンダーの話をすると、「女も男も変わらないんだから、区別せず同じく扱うべきだ」という話が出ることがあります。そういう考え方は平等主義的で、ユニバーサルな価値観です(uni-verseというのは「一方向に向ける」という意味)。でもその実は、どこかで誰かが無理して合わせている、という状態になりがちです。
「ダイバーシティ」という言葉があります。多様性を受け入れる社会を目指す言葉ですが、実はさきほどの「平等」とは逆の言葉でもあります。di-verseとは「別々に向ける」という意味で、「みんな同じ」ではなく、「ちがい」を増やすことなのです。

di-verseは「別々」ですから、みんなが同じように振る舞ったり扱ったりすることではありません。

まずは、それぞれの「ちがい」をしっかり知ることが大事。そしてジェンダーの場合、体のちがいだけではなく、環境的にも大きなちがいがあります。


たとえば、令和ももう3年になるわけですが、未だに意外なほど「理系は男性・文系は女性」みたいなことが言われていたりします。割と自由主義の若い親でもナチュラルにそう思っていたりして、これは結構根深い偏見です。

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さらには「女性は起業に向いていない」とも見聞きするのですが、多数の女性の起業の相談に乗ってきてわかったことは、これって能力ややる気の問題では全然なく、社会環境の側の問題なのですよね。僕も工学部に行ってた時1,000人中50人しか女性がいなかったりしたのですが、社会には平等に見えて(過去の偏見によって生じている)偏りがあり、そのために女性から特定の情報や人脈に「アクセスが悪い」状況になってしまっている。そして、こうした「社会的ギャップ」は男女の話だけでなく、LGBTQや国籍などいろいろなマイノリティーに対しても存在します。


「多様性」の第二項には「選択肢」が必要

では、

2)女性と男性はちがうのだから、扱いも違って当然だ

とよく言われるように、「扱いも違って当然」なのでしょうか?


先程述べたように、属性や環境による「ちがい」というのはたしかに存在します。そしてその「ちがい」は基本的には本人の意思に関係なく、偶然で決定されたものです。(そして、たとえいまマジョリティだとしても、これまた偶然に事故や病気などでいつマイノリティーになるかもしれません)

だとすると、そうした本人のせいではない偶然の「ちがい」によって、どう生きるかという「選択肢」が狭まり、決められてしまう社会は「ダイバーシティ」とは言えないのではないでしょうか?


「ちがい」によって人生が決まってしまうとしたら、社会は固定的になってしまいます。そしてその先にあるのは「分断」です。


僕はダイバーシティについて、下記のような図式で考えています。

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まず、左側の「ちがい」についてはすでに述べたとおりです。こうした現に存在する「ちがい」を捨象して「みんな一緒」といってしまうのは乱暴ですし、一部の人が「黙って我慢する」ことになりがちです。

なのでまず第一に、「ちがい」を理解しようと努力し、その解像度を高めることは重要です。

しかし上の図のように、その「ちがい」が障壁となりそのまま選択肢に影響して自由な選択が制限される社会はまだダイバーシティができていないとおもうのです。

そうではなく、下の図のように「ちがい」を前提にしつつも、それぞれがそれぞれの選択肢を選ぶことができるようになって初めて本来のダイバーシティではないでしょうか。女性が起業をもっと選べてよいし、男性がもっと家事を選べていい。


di-verseとは「別々に-向ける」という意味ですが、より正確にいうと、「向きを変える」こと。さらにいえばverseの語源は「wert-(回る)」なのです。個々人が「ちがい」を起点にしながらも、いろいろな選択肢にむけてくるくる回転し方向転換できる、そうなってこそ本来のダイバーシティだと考えます。


そして、先程述べた通り「ちがい」には「社会的なギャップ」も存在するので、それぞれがそれぞれの選択肢をえらぶためには社会のサポートが必要です。そのためのサポートは画一的なものではなく、それぞれに異なる「ちがい」と「選択肢」との間をつなぐために、多様で柔軟であることが望ましいと思います。(もちろん、行政のサポートなどでは予算が無限ではありませんからある程度「線引き」も必要です。とはいえ、その範囲の中で柔軟な運用を心がけることは本当はもう少しできるかもしれません)


ダイバーシティとアート思考

上に述べたことをまとめると、こんな式になります

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最後に、これをアート思考観点から考えてみましょう。

アート思考もまた多様性に向かいます。というのは、アートがそもそも、ある特定の方向性や価値観を押し付けるものではないからです。


ロジックや論理学というのは基本的に、誰が考えても同じ道筋をたどります。デザインもまたaffordanceなどによってある特定の行動を誘発します。ドアは「押す」「引く」と書かなくても誰でも開け方がわかるべきですし、サイズやあたたかさを選び間違ってしまうコーヒーメーカーやわかりにくいプライベートブランドのパッケージは「デザインの敗北」として批判されます。

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しかし、アートの触発は「こう感じなさい!」という特定の方向に向けられたものではありません。(もちろん作者の意図や題名などのヒントはありますが)それをどう読み解くかは鑑賞者それぞれに委ねられています。(もしそうでないなら、わざわざわかりづらいアート作品をつくるよりは、文章で思考や思想を表明したほうが早いでしょう)


それ故アートは、ロジックやデザインほどには「ソリューション」には向いていません。しかしだからこそ、アートはわたしたちに「どこに飛ぶかわからないエネルギー」を与えてくれます。


また、僕は「アート思考」の反対は「モノカルチャー」や「ホモソーシャル」だと思っているのですが、同質圧力が高く異質性を内包でできない社会においては、個の「いびつさ」は消され、自分らしく生きづらくなりがちです。

そして、そうした同調社会の中で「自分」を消して生きている人は、そのルサンチマンから他人が自分らしく生きることにも嫉妬し攻撃するようになるため、さらに社会から多様性が減っていきます

これとは逆に、それぞれがいびつさを殺さず、むしろそのいびつさを生かして「自分」らしく生きられる社会では人はもっと寛容に、他者のいびつさとも付き合えるようになると思うのです。


お互いがお互いを同質化の圧力のなかで監視し合い、個性を殺す社会より、それぞれのいびつさを生かし、色々な選択ができる「M×Nの多様性」をもった社会にしていけたらいいですね。

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