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そもそも、キャリアに戦略は必要なのか?

少しタイミングを逃してしまった感があるが、日経COMEMOが興味深いテーマ企画をしていたので、今更ながら便乗してみたいと思う。

テーマ企画のお題は、「あなたのキャリア戦略のモヤモヤを教えてください」だ。

このテーマを見て初めに感じたモヤモヤは、「キャリアに戦略は必要なのか?」と言うことだ。戦略ということは、そこには何か達成すべき目的があるはずだ。戦略目的があるからこそ、その目的を達成するための計画である戦略立案が必要となる。しかし、キャリアとは自分の歩んできた「轍」のことを指す。自分が歩んでいきたい方向性はあるだろうが、達成して終わりという目的(ゴールと言い換えても良いかもしれない)を持つことは健全な発想なのだろうか?


個人がキャリアを考えることを阻害してきた日本的教育と人事システム

大学でキャリア論を教えていると「偏差値の高い学校に入り、公務員か銀行に入る、安心・安全な人生が最も幸福だ」と考えている学生が多いことに驚かされる。国土交通省から2040年には全国896の市区町村が「消滅可能性都市」に該当すると警告が出され、金融庁が23県で地域銀行のシェアが100%になっても不採算で維持できないと試算を出しているにも関わらずだ。残念ながら、高校、大学と学生は自分の将来について本気で考える術を身に着けておらず、親や高校の先生といった身の回りの大人の言うことを従順に聞いているだけである。つまり、「キャリア」という概念そのものが頭の中に存在しないと言い換えても良い。

また、日本企業の人事システムの多くは、「自分がどうありたいのか」を考えるのを阻害する。例えば、会社主導の異動は、自分が何の専門性を身に着け、市場価値を挙げていくのかという選択肢を奪う。営業のプロフェッショナルとして価値を発揮したいと思っても、会社の命令で経理に行けと言われたら、それに従うしかなく、キャリアの路線変更を強いられる。

また、「成人した後の能力開発は自己負担ですべきだ」という自己責任論で、専門性を身に着けるための組織外学習や大学院への進学に対する経済的なサポートがほとんどない。どちらかというと、高度な専門性を身に着けたければ、借金を追ってでも学びたいと思うくらいの覚悟を持てと言わんばかりの制度ばかりだ。

しかも、専門性を身に着けたとしても、それを活かす仕事ができるかというと、その保証はない。それどころか「専門一本槍は使い勝手が悪いから、始めは苦手なことをやってウチのやり方を学んで欲しい」と、専門性を活かすことのできない業務に従事させられることも多い。例えば、データアナリストとして雇用されたのに、データアナリストとしての仕事をさせてもらえずに数年が経ち、離職してしまったというケースも目にする。

同様のケースは、去年、SNSで話題になったホンダを入社3年で離職した若いエンジニアのブログだ。彼は理想とするエンジニア像があったが、それは配属された部署が提示するエンジニア像とは異なるものだった。ここで「会社のことがわかってない。もう数年我慢したら納得できるよ。」となると、自分で自分のキャリアを考えることができなくなる「サラリーマンのおじさん」が出来上がる。

このような状況であるため、自分のキャリアを考える必要性もなければ、組織の提示するキャリアと合致せずに苦しむというリスクも高い。結局、多くの日本企業が採用する伝統的な人事システムが、個人がキャリアを考えることを好ましく思っていないのだ。


キャリアは出世でもお金持ちになることでもなく、幸せであること

俗説で言われているように、「キャリア」を出世や昇進、「〇〇の職業に就く」といった目標設定的に考えることも好ましくはない。これは、個人にとっても、会社にとってもである。キャリアの目標を設定するということは、「東大に入ることが目的」で入学後に燃え尽きてしまう東大生と同じだ。キャリアを出世と捉えると、社長が目標になるので、社長になった後に経営者としての役割を学び、組織変革をリードしようというエネルギーが残っていない。キャリアは、目標で考えるのではなく、自分がどうありたいのかという羅針盤として捉えることが肝要である。

「どうありたいか」というのは、言い換えると「どのような状態が幸せなのか」とも言えるだろう。「幸福である状態」というのは、個人によって異なり、他人や会社から強制されたり、評価されるようなものではない。出世して組織の中で重要なポジションに就くことが幸せだと感じる人もいれば、所得や資産を増やして、お金持ちになることを幸せだと感じる人もいる。このように「どうありたいのか」を体系化したのが、マサチューセッツ工科大学のエド・シャイン教授が提唱したキャリアアンカーと呼ばれる概念だ。

キャリアアンカーでは、「どのようにありたいのか」という価値観を8つに分類して整理している。

①管理能力:管理職に立ち、マネジメントやメンバーのサポートをすることを重視する

②技術的・機能的能力:何かの分野で秀でていること、エキスパートとなることを重視する

③安全性:リスクをとることを好まず、生活における「安全性」と「継続性」を重視する

④起業家的創造性:発明やクリエイティブな仕事、新規事業の創造といった新しいものを生み出すことを重視する

➄自立と独立:自分で決めたやり方で仕事を進めることを重視する

⑥奉仕・社会献身:自分のことよりもいかに社会や他人の役に立つのかを動機づけとして重視する

⑦純粋な挑戦:全力で挑むことのできる困難な問題と、そこから得ることのできる刺激を重視する

⑧ライフスタイル:プライベートの充実を大切に思い、仕事よりも私生活を重視する

8つのカテゴリをみてわかるように、キャリアは仕事のことだけではなく、私生活も仕事生活と同等に重要なものとして扱う。つまり、「社会人なんだから、仕事を重視することが当たり前だ」というのは、キャリアの考え方からすると誤っているということになる。自分が幸福であるのならば、どのような働き方を選択しても構わないのである。


自分が幸せになることを躊躇してはいけないし、他人が評価してはいけない

しかし、ここで新たな問題が浮上してくる。そもそも、自分がどういう状態でいることが「幸せ」なのかがわからないという問題だ。童話の「青い鳥」のようだが、自分が何をもって幸せなのか、検討もつかないという人は若者も中高年も含めて多い。これは、小中高校と受験勉強や部活動で「若いのだから苦しいのを耐え忍び、言われたことを忠実にしろ」と押し付けられる教育をしてきたためだ。自分が幸せであることを重視すると、「若いのに、けしからん」と大人が幸せを感じることを潰してきた。

イタリアのACミランと提携して、欧州式の教育スタイルで少年サッカースクールを運営する「一般社団法人エスポルトジャパン」は、イタリアのサッカー教育は、とにかく子供に自分で考えさせて、自己実現を促すことを重視する点で、正解を押し付ける日本式の教育と大きく異なると述べている。

日本の教育では、正解を常に求められてきたが故に、自分が何をしたくて、何に幸せを感じるのかということを考える能力を鍛えてこなかった。そして、社会に出ても、日本企業の人事制度は自分で自分の幸せを考えることを良しとせず、会社の提示する幸せとの同化を求めてきた。もし、その「幸せ」を受け入れない人は「社会人としての自覚が足りない」「理解できない人だ」と落伍者のレッテルを貼られてきた。

また、世の中には「自分が幸せになってはいけない」と自分で自分を律している人も多い。強迫性障害を持つ人に多くみられる傾向だ。有名人だと、サッカーイングランド元代表のデビッド・ベッカムも持っていた障害で、強迫観念と強迫行為という症状に特徴づけられる不安障害の一種だ。彼らのように、先天的・後天的に幸せを感じることが困難な人々もいる。


日本の社会に、キャリアという概念を健全に根付かせたいと思うのであれば、まずは個人が「幸せ」を感じ、周囲が承認することを当たり前とする環境を作ることが欠かせないだろう。「幸せ」を感じることが困難な人には、日常生活の中にある「小さな幸せ」を認めることから始めるのが良い。「今日の夕食は美味しかった」「いつもより電車が少し空いていた」など、小さな幸せはどこにでもある。まず、自分の家族や職場の同僚といった目の前の人が感じる、小さな「幸せ」を応援することから始めてみよう。

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