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自動運転と、新規事業と、コロナ対策を合理的に考えてみる

突然ですが、読者の皆さんに質問です。

「自動運転を認可するためには、技術的にどれくらい安全が担保される必要があると思いますか?」

この問いに対して「機械が運転するのだから、一切の事故を許容しない」という考え方があります。

その価値観に基づいて、人の考えは色々あるので、この考え方について、正誤を論じることは出来ません。

しかしこの考えが「合理的かどうか」で言えば、これは合理的ではありません。

なぜなら、仮に自動運転による事故があったり、それによって死者が出たりしても、人間によるその件数よりも少なければ、社会全体としてのリスクは減るからです。

一方で、この考え方は、直感的には受け入れにくいところがあります。
皆さんは、そうお感じになりませんか?

その理由を考えてみると、大きく、

(1)機械がやることにはミスがない、という基準(参照点)が形成されており、それを下回ることは許容できない心理

(2)自分が事態(運転)をコントロールできる、したい、という心理

(3)自動運転を単体で評価しようとしていること。

この3点であり、これらは人が持っている認知的バイアスによって引き起こされるものです。

(1)の参照点について。たとえば年収1000万もらって満足している人が、隣の席の同僚が1100万もらっていると知った途端不満になったとします。

これは、同僚の年収を知るまでは、(例えば)平均年収である400万と比較してそれよりもはるかに多いと満足を感じていたのが、比較の対象が同僚の年収額にスイッチした途端、同じ年収に対しての満足度が下がってしまった、という現象です。

人間はこのように、何かを(このケースなら自分の年収)を評価する時、何かの参照点を恣意的に設け、それ(このケースなら平均年収→同僚の年収)との比較で考えます。

自動運転の例で言えば「機械は間違えない=ミスはゼロであるべき」という参照点で人は直感的に考えがちである、ということですね。

(2)はコントロール幻想バイアスと呼ばれています。サイコロの出目で何かを決める時、誰が振っても確率は同じですが、なんとなく自分でやりたくならないでしょうか?それと同様に、人は運転についても自分でハンドルを握り、コントロールを確保したくなるのです。

(3)については、このケースであれば、自動運転のリスクを測ったり評価したりするためには、自動運転単体で考えるのではなく、これを許可・施行しない場合と比較することが必要であり、この場合は比較すべき対象(=用いるべき参照点)は、この「許可・施行しない場合」の事故数や死者数です。

ところがこれを単体で考えると、少ない方がベター、という基準しかできず、かつ先述した様なバイアスの影響と相まって、事故や死者はゼロであるべきである、という考え方が出がちになってしまうのです。

ところで、これと同様のことは、会社で新規事業や新企画を提案するときにも、よく起きます。

斬新なマーケティングの企画を上層部に提案したら「クレームが来るかもしれない」「想定通りにユーザーが使ってくれない可能性がある」など、つまらない揚げ足取りでストップをくらうのは、よくある話。

しかし、緻密に考えた新しいアイデアを実行することより、やらない場合よりも結果が良くなる可能性が高いのなら、さっさとやれば良いのです。

さらにいうと、最近はこれと同様のことが「ゼロリスク症候群」という呼ばれ方で、コロナ対策についても指摘されています。

非常に確率は小さいですが、まれに飛行機は事故を起こしますし、ごく稀に橋梁は崩落します。つまり飛行機や橋梁はゼロリスクではありません。

しかし事故を恐れてそれらを駆逐したら、社会はとても不便になり、全体のベネフィットは大きく下がります。ですので、リスクの頻度とベネフィットの大きさを正しく天秤にかけ、受け入れている訳です。

同じように、自動運転にゼロリスク、つまり絶対に事故が起きないことを求めてしまうと、(事故が起きないことを保証することはできないので)諦めるしか無くなってしまいます。これにより、人間の運転よりリスクが小さいかもしれず、かつ多大な利便性がある自動運転が陽の目を見ないというのは、控えめに言って、社会がよくなく機会を逸しているように感じられます。

そして、多くの識者が説いていることではありますが、コロナ対策においても、ゼロリスクを指向することにより全体から失われるベネフィットがあります。

ゼロリスクを取らないことにより軽減されると思われる「経済停滞による企業の倒産や失業者の増加」「医療リソースの配分減に伴う他の疾病による死者増」などと、ゼロリスクをとることにより軽減されると思われる「コロナによる死者数」「コロナそのものによる経済停滞による企業の倒産や失業者の増加」を比較し、どちらが大きいか。この問いに答えることにより、少なくともどちらが合理的かという判断は可能です。政治的な判断が、メディアなどの批判に晒されることにより、合理性を欠かないように祈るばかりです。

最後に。合理的に考え、社会は個人のベネフィット・幸福を増幅するには、上記(1)ー(3)などを含む人間のバイアスが体系化された行動経済学がとても有用です。この分野では、すでに多くの書籍が出版されていますが、拙書「幸せをつかむ戦略」(日経BP社)においても、論じています。ご興味の向きは、ぜひお手に取ってみていただけたらと思います。








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