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なんでもあった日本から、侮る日本へ。(下)

中国やインドの産業・企業は急成長した。ブラジルの産業・企業も成長した。東南アジア各国の産業・企業も伸びた。しかし日本人は、そういう成長している、日本に追いついている、いや追い抜いている国々の企業を舐める。日本よりも、レベルが低いという見方をする。日本の名だたる企業よりも大きく、世界展開している企業は山ほどあるにもかかわらず、”アジアの企業は信用にならない、いい加減なモノをつくっている、日本の物真似だ、日本企業の方がすごい”といったりする。そんな先入観のままで、ウサギとカメの寓話そのもの。

そんなにすごい日本ならば、外国企業がもっと日本に進出してもいいはずだが、多くはない。海外企業とのM&Aも増えているが、欧米系ならばいいが、アジアの企業と組むのははどうだろうと、見くびる。これって、大きな間違い。

かつての日本のお家芸だったモーターは、中国に追いつけない。小型から大型のモーター技術、製造も特許も、論文も中国にかなわない。モーターだけではない、電気機械も中国にかなわない。IT、ソフトウエアはインドにかなわない、インドのシステムエンジニアのレベルに追いつかない。インドには世界一の鉄鋼メーカーすらある。にもかかわらず、日本人は中国やインド、ベトナム、タイなどの企業を舐める。日本人の世界観、とりわけ欧米以外の国々に対する世界観は昔のまま。

「教える日本 ― 教わるアジア」の構図

100年50年前ならまだしも、どう考えても、現在はそういう構図ではない。芸能・エンターテインメントでは、韓国にかなわない。ベトナムの検査技術力は、すこぶる高い。ベトナムのシミュレーション検査・環境検査は、群を抜いている。オートバイは、インドネシアやタイがすごい。日本企業がつくれないものをつくっている。それも奇をてらったバラエティものをつくっているのではなく、世界の大企業相手のむこうを張って、独創的なオートバイで世界展開している。こういった事実に対して、敬意をもった見方、正しい評価をしない。いつまでも、昔のイメージでアジアをみる。

かつて欧米の優れた技術のモノが出てきたら、技術者を派遣して勉強しにいったが、アジアのモノに対しては正しい評価をしない。どうせたいしたことはないだろうと侮る。だから世界の流れに置いていかれ、ついには日本外しされてしまう。しかし大半の日本人には、そういう認識がない。ウサギとカメそのもの。

コロナ禍でデジタル技術の遅れが炙り出されたと言われるが、世界からの遅れはデジタル技術だけではない。中国やインドや東南アジアやブラジルなどの産業技術全般や企業に対して、正確、冷静な評価ができない。

中国の特許出願数は世界一で、ドクターの数は抜群に多く、日本よりもはるかに高学歴。それを認めず、中国の技術力は低い、品質は信用できないといったりする。日本が誇りにした日本製の品質や信用は相当揺らいでいる。今でも「日本が誇る世界の○○」といったりする。そういう分野も多少あるが、それをもってすべてというわけではない。中国やインドや新興国の現在を正しく理解し、何年も前のままの発想から転換しないと、日本はさらに取り残される。

北欧に対しても、そう。フインランドのノキア、スエーデンのスポテファイやイケアといった世界的企業についても、そう。えっ、あの会社、北欧が本社なの?“意外だな”と言ったりする。意外だと思う日本人の認識・世界観がそもそも不遜。日本だけが素晴らしいのではなく、世界には素晴らしい企業は多い。世界は、世界の人を積極的に受け入れ、つねに新陳代謝を行ない、多様なカルチャーを融合して、新たな価値を生みだそうとする。世界や世界の企業に対して、正しい認識を持ち、正しい視線を送り、正しいエールやメッセージを送らないと、日本は島国でひとり取り残され、相手をしてもらえなくなる。

日本人のインバウンド観も間違っている。日本はすごい国だから、すぐれているから、世界から日本に来られるのだ、外国人は日本に学びにくるのだという捉え方をする。とりわけ「教える日本―教わるアジア」という見方をする。そういう認識自体が適合不全である。日本に来ていただく外国人と日本人がお互いに学びあい、なにかをうみだそうとしなければいけないが、日本人はそうしない。アジアや新興国を見下しがち。

日本人は日本人を過剰に評価しすぎる、外国人を過剰に侮りすぎる。かつて日本人は学びが好きだった。古代日本は、あらゆる領域で渡来人にリードしてもらった。海外のすぐれた人から世界最先端のモノ・コトを学び、元よりも優れたモノ・コトをつくりだした。シルクロードを歩いてきた世界の人たちから学び、遣隋使・遣唐使たちは中国で学び多くのモノ・コトを日本の持ち込み、平安・鎌倉時代に日本流に編集して洗練させ、室町・安土桃山時代には世界から新たな西洋技術に学び、古代から承継してきたモノ・コトと融合・進化させ、さらに江戸時代に円熟させ、幕末には蘭学を学んだうえに、明治維新に怒涛のように人材を世界に送って学び、それまでの日本的のものを再編集した。そして戦後日本も世界に学び吸収して、“Japan As Number One”と持てはやされたりするようになるが、また日本は世界から学ばなくなっている。

「なんでもあり」ではなくなった日本

世界一学びつづけた日本の本質は「なんでもあり」だった。日本人が「なんでもあり」だけではなく、世界の人にとって日本は「なんでもあり」だった。だからなにもかも日本に入ってきて、日本は世界から学んだ。

ところが「日本はすごい、日本は進んでいる」などと言われ、日本は「なんでもあり」ではなくなった。「なんでもあり」の日本は、日本人も外国人も対等で、お互いを理解しあっていた。日本が外国人を取り込んでいくとか、外国的なものを取り込んでいくのではなく、日本で、日本と外国が混じりあっていく「なんでもあり」が、どこにもない独創的なものを生みだした。現在、そうではなくなった。

しかし日本は世界に向いていないというわけではない。海外のモノ・コトをそのまま日本に持ち込んで騙る知識人たちが増えた。横文字を並べて、みんなを煙に巻く。なにを言っているのか分からない。知らない分からないと言って、そんなことを知らないと思われるのはカッコ悪いので、どういう意味なのと訊かない。こうして海外の横文字が日本中にあふれだした。海外のモノ・コトを日本的なるものに翻訳せずに(おそらく翻訳できない)、文脈・背景が違う「外のモノ・コト」をそのまま日本に持ち込む。しかし多くの人は意味わからん訳わからんと理解できないので、それはすぐに消えていく。

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前提条件を外して、自ら考える

コロナ禍後がどうなるのかという先行きが見えない。現在の日本企業は3年先・5年先という中期はおろか、単年度も読めない。10年先20年先の事業がどうなるか、見えない。企業がそのまま続くとは考えられないが、前提条件を変えない。コロナ禍影響はあるだろうが、それはそれ、現状を直視することも将来を展望することも思考停止して、コロナ禍前の前提条件に戻る。これまでの前提条件の延長線上で企業は考えて、コロナ禍前と同じような計画を立てる。

企業の最大の資産である人材はどうか。コロナ禍の構造的な変化を考えると、新卒を大量に採用して、終身雇用制度のもと、企業のなかでじっくりと企業に合うように育てようという人材育成という前提条件が崩れる。これまでのように、大学ブランドで人材を採用する時代ではなくなる。個人の資質もあるが、コロナ禍前も大学名で人材の将来性・ポテンシャルを判断して採用する傾向が強かったが、コロナ禍後、それでは通用しなくなることが顕かになりつつある。

企業として人材は、日頃の仕事ぶりで判断するようになる。コロナ禍後の社会が読めないので、人材は潜在的な能力よりも顕在化した能力で評価するようになる。企業がじっくりと人材を育てるという時代ではなくなる。求める人材が企業のなかにいなければ、外を探す。目的・目標・案件に合った人材を適宜配置する。とりわけ自ら考えて自らの意志で自ら行動できる人材を求めるようになる。
よって企業に入ったら企業がずっと育ててくれるという前提条件を捨て、自らの考えで独自に学びつづけて成長しつづけなければ、社会に通用しなくなる。学び直しといった表現ではなく、ずっと学びつづけないといけない。

これから「仕事」が大きく変わる。コロナ禍で、オフイスでしていた仕事をテレワークで代替するというようなデジタルトランスフォーメーションなどのテクニカルな対応で効率化・生産性向上させるだけではなく、「仕事」の品質を飛躍的に高めることが求められる。そのために根本的に仕事と生活の関係、個人とチームの関係を再構築して、仕事の定義・スタイル・流れを抜本的に変える。このコロナ禍で、テレワークをどうするのかと捉える企業と、仕事の質を高め社会を大きく変えるチャンスが到来したとワクワクして総合的に捉える企業とで、コロナ禍後に大きく変わる。

コロナ禍でオンライン講義が中心となり、大学生は大学とはなにかを考え直すようになり、ある有名大学では退学意向1割・休学意向2割という学生アンケートが出た。進学した大学における大学生の認識が変わるということは、このコロナ禍の社会影響が半年や1年で終るというようなレベルではなくなり、数年いや10年以上のレベルに及ぶと考える大学生が増えているということをあらわしている。このようにコロナ禍で社会的価値観が変わり、これまでの社会システムがリセットされ、ビジネスのルールが変わろう、企業が変わろう、企業が求める人材像が変わろうとするなか、大学も変わらないといけない。

コロナ禍が社会にどのような影響が与えるのか、これからの社会がどうなるのかは分からない。だとしたら、このまま大学にいてコロナ禍前と同じような講義を聴いていて意味があるのかと考え、大学を飛びだす人が出てくるのは自然である。大学はオンライン講義がどうのこうの対面講義がどうのこうのとこれまでの代替として対処するか、コロナ禍後社会に向けて「学び」を根本的に作り直すチャンスが到来したと捉えるかどうかで、やはり大きく変わる。

これまで日経COMEMOで考えてきたことも含めて、コロナ禍後社会を考える連続講座をおこない、語り合っている。次回は9月29日に、「コロナ禍後のビジネスはどうなる」をテーマに開催する。



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