カフェという公共空間をまちに開く個人を尊敬し、応援するには?
(Photo by Devin Avery on Unsplash)
わたしは、カフェで仕事をするのが大好きだ。1日に3軒くらい、はしごして過ごすこともよくある。わたしがイメージするカフェは、チェーン店ではなく、だけどコーヒー命というような硬派なコーヒー屋さんでもない。いつもマスターがいて、ゆったりとホームのような時間をすごせるカフェに魅力を感じる。こんなすてきな個人経営のカフェが、私の人生を豊かにしてくれている。そしてコロナ禍の昨今、わたし自身、カフェのサポーターとしての意識が高まっている。
「個人経営のカフェ」が、まちの関係性ステーションとして生き残り続けるために、カフェ愛好者であるわたしたちは、どんな能動的なアクションができるか、考えたい。
人間の居る場所
私の大好きな、三浦展さんの書いた「人間の居る場所」というまちづくりの本がある。三浦さんが住む西荻窪の良さは、「お店に店主がいる確率が高い」ことだという。ほんとうにシンプルな法則だ。吉祥寺はアルバイトが店頭にいる確率がどんどん上がっていて、まちとしてやばい、というのだ。
いま京都に住み、三浦さんのこの感覚がとてもよくわかる。私の行きたいところは、人間の居る場所なのだ。
あるいはロボットカフェ
その対極の動きとして、すごく興味深い記事がある。ロボットが調理も配膳も行う実験食堂だ。「ロボットがレトルト食品を解凍し、盛り付けて配膳する完全自動化ロボット食堂の実現」とのこと。
効率経営という意味では、極論、多くのカフェがこういったロボット店舗になっても不思議ではない。とくに調理をしないカフェは、ロボット店舗と商品で差別化するのは難しくなるだろう。
コロナ禍で商売の基点がコミュニティに
カフェの未来のシナリオは、「人間の居る場所」に向かうのか、あるいは「ロボットカフェ」に向かうのか、大きな分かれ道に立っている。
そこにもう一つの要素として掛け合わされるのが、コロナ禍の影響だ。京都や大阪では、インバウンド観光客の激減によって、各店舗は観光客依存を脱し、地元顧客としっかりとつながる必要が増している。この文脈は、「人間の居る場所」シナリオに比重が増す可能性を後押ししているだろう。
供給側の議論から需要側の議論へ
社会システムを動かす議論は、供給側で進むことが多い。インパクトが大きいからだ。たとえば、私が洋服をリペアして着るようにしたとしても、ファストファッションが大量廃棄する量とは比べものにならない。
しかしその一方で、ファストファッションが大量廃棄してでも、カラフルで安い洋服をほしいと思っている消費者、つまり私たち個人がその原因を作っている。曲がったきゅうりが廃棄されるのも、ケミカルまみれの商品ばかりが店頭に並ぶのも、すべて私たちが知らず知らずのうちに選んでいるからだ。
CAFELOVER'sコミュニティ
消費者として、ためしに立ち上がってみよう、という思いで生まれたのがCAFELOVER'sコミュニティだ。このコミュニティの特徴は、メンバー一人ひとりが「カフェ利用の自分自身の美学」を宣言して、そのうえで「だから私はこのカフェを紹介するよ」と共有し合うところだ。カフェ側の努力に期待するのではなく、利用者として美学をもってカフェにつながっていくことで、自分自身も学び、カフェを応援することで、最終的には供給側にも影響を与えていくことをねらいとする。
このコミュニティには、3つのレイヤーを用意している。ただ参加するだけで、何もしなくても価値があるレイヤーから、最終的にはSDGsにつながる活動をカフェから始めることもできる。そういった「正当的周辺参加」ができるコミュニティにしていきたい。
一つめのレイヤーが、各自がカフェへの想いとカフェを紹介し合う、「ただここにいるだけで価値があるよ」という居場所。
二つめのレイヤーが、テーマをもってカフェの記事やツアーを仕上げていくという、いわゆるメディアの機能、具体的には編集会議という場。
三つめのレイヤーが、カフェを通じた「地域プロジェクト」の実施。たとえば私たちは、京都コーヒーかす再利用プロジェクト「mame-eco」に注目していて、カフェラバーたちが何か貢献できないかな、と考えている。
mame-ecoは、フランス人と日本人のご夫婦が個人的にやっているプロジェクトなのだが、とてつもなく面白い。コーヒーをたくさん飲むご夫婦が、コーヒーかすを堆肥化できないかと考えたのがきっかけ。ようやく引き取ってくれる農家さんを見つけたところ、毎月5キロあるなら取りに行ってあげる、と言われてしまった。自分たちだけではそこまで溜まらないので、近所のカフェを回って、コーヒーかすの循環の輪に入りませんかと声かけして、今では多くのカフェが参加しているというものだ。フランス人のご主人が自転車で回ってコーヒーかすを回収、分別しているところが驚きである。まさに、個人の行動が供給側を動かしている事例にほかならない。
「カフェという公共空間をまちに開く個人を尊敬し、応援するには?」という問いで始まったこの記事だが、供給側の議論だと大規模であることが強みになってしまうが、需要側の議論から始めると、小規模であることが逆に強みになる。
つまり、私たちが社会システムの変革を供給側に任せっきりにするのではなく、需要側から自らの美学や意志を発信していくことが大事なことなのだ。
それは私たちが、社会システムを自分たちの手元に取り戻すことでもある。