五輪開会式を見ながら最後はこう想いを込めた。
延期から1年、直前までバタバタの五輪だったが、なんとかかんとか始まった。
よくよく考えてみると、そもそも延期って大変だろ!と思うのだが、ここに来て新型コロナウィルスの再感染拡大があり、加えてクリエイティブ関連のメンバーのごたごたがあったりで、正直「これ、本当に実行できるのか?」という印象だった。
テレビをつけたら、開会式をやっていた。僕は東京に住んでいるが、オリンピックが始まるぞ!という印象は驚くほど薄かった。ただ、開会式を見ると、それなりにテンションが上がる。それは、東京でやっていようが、そうでなかろうが変わらないかもしれないが。
自国開催ということもあってか、あと、リアルタイムで見やすい時間帯だったこともあり、通常の大会よりも、しっかりと見た。入場行進のほか、以下の記事にあるような趣向が次々と展開された。
印象的だったのは五輪のマーク、からの地球を表現したドローンの動きだ。これはとてもよかった。テクノロジーの発展を皆が認識しながら楽しめたと思う。
あとは、当然ながら入場行進はよかった。やっぱりこれが五輪の醍醐味だ。無観客なので、入場してくる選手たちもどこに向かってアピールすればいいか戸惑いもあったと思うし、マスク着用が義務つけられ、だからこそこれまでの五輪と比べ、選手のはしゃぎ方も心なしかおとなしめだったのではないかと思うが、入場行進は圧巻ではあった。
とはいえ開会式の中継を見ていて、このイベントに没入しよう!楽しもう!と思いながら、何か集中しきれない自分がいることに気づいた。
その理由は大きくは3点ほどある。
ひとつめは、新型コロナウィルス感染拡大に伴う五輪をとりまく状況の悪化。開催するのかしないのか、観客を入れるのか入れないのかが見えづらくなっていて、最終的には無観客になり多くの国民が残念に思ったことだろう。コロナウィルスの感染拡大という如何ともし難い状況はあったものの、もう少しどうにかならなかったのだろうか?と僕は思う。まあ、これは我が国のコロナ対策のイマイチさ、という話で、これを語り出したら五輪のことを遥かに超えるボリュームになってしまうのでここでは割愛するが、
ワクチン接種をもう少し早く集中的に行うことができていたら、ということと、昨年の段階で「コロナウィルスとの共生」を力強く打ち出し、飲食店を槍玉にあげるようなことをしなければ、状況は全く違ったのではないか、と考える。まあ、今僕が言っても後出しじゃんけんになるわけだが。
2点目は、直前のクリエイティブ系人材のバタバタだ。以下の記事に森喜朗さん、佐々木宏さん、小山田圭吾さん、小林賢太郎さんと連続してまあ擁護しようがない舌禍が(過去のものが取り上げられる、ということも含め)開会式前日まで続き、これで開会したから気持ちを入れ替えて楽しもう!とはなかなかなれないお粗末さだったと思う。
これらは、ひとつひとつ大きな問題であり、よくある「言葉狩り」「内輪の話」「昔の話」「粗探し」ということで済まされる話ではない。もちろんこれが昂じて家族にまで攻撃が及ぶとか、ネットのリンチになることは許されないが、
ここまで連続したことで見えることは、「日本人は、人権や差別の問題に甘いし、無邪気に笑いのネタにしやすい。そしてそれは国際感覚で言えばずれている」ということだ。これは僕らはしっかりと理解しなければならない。
そして五輪組織委員会がしっかりとスクリーニングしないで人選していることが、本人の問題以上の大問題だ。小山田圭吾さんの時も「このタイミングでもあるし」と国民に理解を求めたのは、明らかにこの問題解決に関するリーダーシップが欠如しているし、感覚がおかしい。さらに、小林賢太郎さんは解任、森さん、佐々木宏さん、小山田圭吾さんは本人の辞任となるのもおかしい。そんな中で五輪が始まっても、「それはそれ、これはこれ」とはなりにくい。
3点目は、五輪は「スポーツと平和の祭典」で、アマチュアリズムを大事にしているイベント、という意識を以前は多少は持っていたが、「そんな美しいもんではないね」という印象が強まった。
それは色々な要素があるが、例えば開会式の登場順があいうえお順だったにもかかわらず、米国の登場は、最後から三番目であったことで感じた。理屈としては日本が最後、次回開催のフランスがその前、次次回の米国、ということで並んだらしいが、その並びには無理にも程があった。
この順番は、すぐに登場してしまうとチャンネルが変えられてしまうから、と米国の放送局の意向がはたらいて決まったのこと。真偽のほどはわからないが、そうだとしたら明らかにおかしい。では、2032年実施で決定したばかりの豪ブリスベンが、決定ほやほや!ということで米国の前に出せばいいのだがそれはなかった。
そういうことを聞くと、IOCのバッハ会長が宿泊するホテルが高級ホテルの超高いスイートルームだとか、なんで国民が会食を避けているのに歓迎パーティなんてやっているんだ!とか、なんで天皇の隣に国家元首のように座っているのだ、とかそういう細かいことが自分の中で整理つけられず、五輪に感情移入することができなくなる。
それらの要素があいまって、開会式にのめり込めない自分がいた。
しかし、入場行進は違った。これは選手たちのお披露目だ。世界各国で選ばれた選手が、自分たちの国の代表として誇りをもって行進している。オリンピックはこの選手たちがつくっていくと思うと、全ての国がどんな選手たちで、どんな表情をして、どんな服装で、どんな行進をするか目が離せなかったし、頑張れ!と声をかけたくなった。毎回、胸が熱くなるが、今回も胸熱だった。
なぜ今回の入場行進に感激できたのか。前回までの入場行進での感激とはまた異なる感情があった。
入場行進を見ながら、五輪の印象が上記のような「ちょっと色あせた」感情を持ったとしても、この選手たち一人ひとりは現実だし、この多様性を受け止め、皆が幸せになる社会を作ることが大事だし、そのために五輪があるのだな、自分も、そして日本としても、この五輪を経て変わらねばならないのだな、と感じることができ、「入場行進の真実」と「五輪をめぐり見えた諸課題」がつながったのだ。
ひとつは個人的な話。自分の知らない国がたくさんあること。知らなければコミュニケーションもとれない。これは大いに反省だ。多様性を認める社会になるためには、まずは知らなければならない。これから、世界の国についてもっと勉強するし、その国の人に触れていこうと思った。
もうひとつは、ここに出てきた、そして出てきていない全ての国や人に対し、差別の意識を持たない、ということを世界中の人が実行していかねばならない、ということ。「みんな違ってみんないい」が徹底すれば差別はなくなる。ひょっとしたら直前のバタバタは、日本国民がそういったことを議論し、学んでいくためのポイントを教えてくれたのかもしれない。
そして最後には、リーダーシップの欠如で様々な問題が発生したわけであるが、それはそろそろ、この国のリーダーシップがいよいよ制度疲労を起こして機能しなくなっており、抜本的な改革をしていかねばならないタイミングである、ということを教えてくれたのかもしれない。だから、五輪をきっかけに、国のリーダーシップをどうするべきなのか、考え実行していこうと思った。
そういうことを考え直すきっかけとして五輪があるのだな、と考えたら、入場行進をする全ての選手たちの顔を見ながら、エネルギーが漲ってきた。
そもそもはコロナウィルスが感染拡大し、緊急事態宣言が出ているこんな無茶苦茶なタイミングなのだ。無観客になったのは本当に直前だが、現場や放映のオペレーションはつつつがなく遂行された(はずだ)。クリエイティブのメンバーたちは、このほか(騒ぎになる前に辞任された)のぶみさんも含め直前に何人も変わったが、問題なく行われた(はずだ)。これらは日本の底力だ。
日本は、高い能力をもって五輪をやりきる。こうしたオペレーション力、やりきる力はおそらく世界最高だろう。
一方で、人権や差別に関する意識、リーダーシップは、これから鍛えていかねばならないことも見えた。
できることもできていないことも、今回の五輪で見えてきた。今回は、新しい日本をつくっていくきっかけの大会だ。「スポーツの大会と政治は関係ない」どころではない。社会にとって大事な機会だ。スポーツを楽しみ応援するし、新しい社会も考える。それでいいじゃないか。そう思ったら最後、ピクトグラムのパフォーマンスを見ながら、楽しくなってきた。
コロナ禍の五輪を楽しみながら、新しい社会に想いを馳せていこう。
それにしても、バッハ会長の話は申し訳ないが長かった。それでTwitterでこんなことを打ったら多くのいいねをいただいた。
チケットを得ていたバレーボールとバスケットボールは予選から楽しもうと思うし、他の競技も見たい。日本選手の活躍や世界各国の選手の活躍を心から願う。
この五輪の成功に尽力される現場の皆さんの努力に、心から感謝を申し上げたい。ありがとうございます。
そして僕は、新しい社会に想いを馳せる2週間にする。
この世界はボロボロだけど、可能性に満ちてもいる。日本も同じ。ボロボロさを露呈したけど、可能性に満ちている。ボロボロを意識し、可能性に想いを馳せる、そんな2週間にしよう。
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