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cakesの二度目の炎上についてnoteユーザーとして自分なりに考えたこと

お疲れさまです。uni'que若宮です。

本件に関してnoteというプラットフォームで書くのは複雑な気持ちですし、またいわゆる「燃えている」可燃性が高いところで発言することは、本来の意図が伝わらず無用の誤解や反発を受けるリスクもありあまりしない方がよいのですが、しかし、今回の件を「炎上」の一言で片付けたり、個人の吊し上げで終えるのではなく、これから良い方向にいくためにきちんと議論する必要があると感じ、できるだけ正直に今の自分の想いを書いてみます。

反論などへもTwitterなどで可能な限り対話したいと思いますが、

・この記事の一部ではなく全文を読んだ上でご意見ください。
・一方的に乱暴な言葉で攻撃的に来るコメントについては取り合いません。議論を建設的にするため互いに敬意のある言葉で話しましょう。
・どちらかの「正しさ」や「論破」のためのディベートではなく対話を目的としているため、水掛け論となった場合は途中で会話を終了する場合があります。

どうぞ宜しくお願いいたします。


なぜこの記事を書くのか

炎上中の案件についてなにか書くことは、可燃性フリースを着てわざわざ山火事の現場に出向くようなものです。センシティブになっているためにちょっとしたいい回しに強い批判を受けることもありますし、代理戦争に巻き込まれるリスクもあります。にも関わらずなぜこの記事を書くのか?

ご存知の方も多いと思いますが、cakesが炎上をしたのは今回が初めてではありません。以前からその編集方針や対応に疑問や批判のあったcakesが再度炎上とのことで、運営会社のnote株式会社の責任を問う声も大きくなり、noteの利用をやめて他に乗り換える、いわゆる「不買運動」的なことも起こっています。

数ある選択肢からそれを「利用する」のはひとつの「選択であり投票」です。そう考えると、noteを利用することがnote社のスタンスへの肯定にもつながる、とも言えますから、意思の表明として「noteの利用をやめる」という選択をした方たちの気持ちもわかります。

でも僕は今回の件ではnoteの利用をやめない予定です。といっても、それはcakesを肯定する、ということではありませんし、以下に述べるようにnote株式会社にも問題があると思っています。

にもかかわらずnoteの利用を継続するのは、一つにはnoteとcakesは違うサービスであると考えるから、そしてサービスとしてのnoteのスタンスや空気にいちユーザーとして好感をもっているからです。

↓の記事にあるように、2つのサービスはかなり異なる方向性をもっていて、

ピースオブケイク社(現note社)がnoteで目指していたクリエイターズファーストと掲げる優等生感のイメージ、「健全な良い子だけ集う街」=お手手繋いでみんなでゴールやらと、cakesで連載されてる数々の俗っぽいコンテンツはそもそも相入れてなくて、あまりにも世界観の違うnote→cakesへの流し込みモデルってのが無理があったように思っています。

もちろん母体は一緒で家計も一緒なわけですが、だからといってcakesが嫌だからnoteも使わない、というのはちょっと主語の拡大というか、例えていうなら、ある家庭に問題児が出たからといって、そのきょうだいや家族とも「〇〇家だからねえ…」と付き合いをやめるような感じがするのです。

繰り返しになりますが、note利用をやめた人への批判の意図はまったくありません。意思表明としてそういう選択も当然あってよいと思います。ただ、誰もがそうすることはなく、各々で判断することだと思います。僕としてどうしたいか、を考えた時、「note家の一員だから」という理由ではnoteさんを嫌いになれないし、noteのこれからのためにも縁を切らずに、note家の問題点と改善点を一緒に考えたいと思いました。

そこで、あえてnoteの利用を続け、noteを通じてnote社への意見を書こうと思い至ったのです。


問題とされた幡野氏の記事について

今回問題とされた幡野さんの記事は、すでにcakesから削除されています。ですがインターネットの海には魚拓的なものがあるので、インターネットで検索すれば全文を読むことができます。

今回の記事を読んでの僕の正直な感想は

「雑な表現が多く気遣いも不足していているが、相談への解答には幡野さんなりの真摯さは感じる」

というものでした。

まず、僕がこの記事で最もだめだと思った一文は

「友達自身が気づいて成長していかなきゃいけないの、それが自立っていうんです。」

という箇所でした。

これは公開された記事として、あまりに配慮にかける言い方です。未成年、それも女性に対する搾取や性暴力、さらには家庭のネグレクトや虐待は明確に犯罪的な問題ですし、そうした環境にある「友達」は「気づいて成長」や「自立」できるところを越えている。幡野さんも「母親」や「彼氏」の少年が問題だと指摘はしているけれども、最後にこういってしまうと「自己責任だよね」と聞こえてしまいます。こういう表現を読んで、同じような環境に悩む当事者が傷ついたりつき離されたように感じることもあると思う。これはやっぱりよくないと思いますし、表現を修正なり補足するべきではと思います。

しかし全編として、相談者への幡野さんの返答の意図は、「友達の状況はたしかに問題を抱えているけれども、”友達として"正論で否定するのではなく、見守る、というのもあるよ」というアドバイスだと感じました。「正しい」模範解答ではないけれども、こういうアドバイスがあってもいいのでは、というのが僕の感想です。


人の心は「正しさ」だけでは救えないことがあります。自殺願望がある人に対して「命の大切さ」を説くことがかえって罪悪感を強くさせ、本人をさらに苦しめ生きる価値がない、と思わせるに至るようなことがあるのです。

僕も中学時代に割とそうした友達がいましたが、こうした複雑な環境にある少年少女には「(良いか悪いかではなく)肯定してあげる存在」というのが必要だったりもします。相談者の友人も「悪いこと」とは知っているでしょうし、周りにはそうした彼女の行動や浅慮について責める大人もいるでしょう。だからこそ、相談者には友達であるあなたまでが「べき論」を説くのではなく「見守る」という選択肢もあるよ、と幡野さんは伝えたかったのではないでしょうか。

といっても、先述の通り「自己責任」と読めてしまう幡野さんのアドバイスを僕は全肯定できませんし、多くの方が指摘していらっしゃるように、そういう見守りでは問題が解決せずエスカレートしてしまうことがあるから、友人を直接否定せずとも「周りにもこういう相談先とかあるよ」とちゃんとした解決への糸口まで導いてあげたほうが良かったかも知れません。


テキストの解釈の問題

幡野さんの元記事自体にも問題はありますが、一方で今回の幡野さんに対する批判の中にはちょっと過剰というか、すれちがいもある気がしています。

たとえば、多くの方が、書き出しの部分から批判を述べています。

「こんにちは。14歳ですか、若いなー。こんにちはの後ろに「!」をつけちゃうのが若さですね。」

この一文が「相手を若いからと見下してバカにしている」という批判です。僕もその後のおじさん構文のくだりとか含めて文章のスタイルとして軽いなあとは感じますが、「見下している」とまでは思いませんでした。その後の「おじさん構文」話は自虐ネタで、相談者に親近感をもってもらうためのコミュニケーションのつもりだったのではという気もします。

しかし、そうした「軽口」やネタはちょっとわかりづらい部分もありますし、本人がその気がなくとも相手を傷つけるのがハラスメントです。幡野さんの本意はわかりませんが、仮に見下す意図がなかったとしてもやはり誤解を招きやすいものではありますし、こうした軽口のコミュニケーションは難易度が高くスキルが要ります。たとえば綾小路きみまろさんや毒蝮三太夫さんが「ばばあ、早く死ね」といったとして、それを本心だと取る人はいないでしょうが、それは「笑いの腕」があるからであり、キャラクターを確立してきたからこそです。


僕は幡野さんにそれほど詳しくありませんし、前回炎上時の文章には相当にげんなりしたので、書かれたものをほとんど読んでいません。なのでこうした「芸風」が成り立つ存在なのかもちょっとわからないところはあるのですが、冒頭で相談者が

「幡野さんこんにちは!いつも楽しく読ませていただいています。ありがとうございます!」

というテンションで書き出しているところからすると、相談者は幡野さんのファンなのではという気がしますし、その上で冒頭の軽口が成立する気はします。

念の為申し上げると「いやこれくらいの別に軽口いいじゃん、細かいこというなよ」などと主張したいのではありません。むしろ先にのべたように、こうした軽口には「腕」と「関係性」が必要で、素人が下手に手を出すと怪我したり傷つけたりしてしまうので注意が必要だと考えます。

でも当事者ではない人が「これゼッタイ見下してる」と決めつけてしまうのもまた違うと思うのです。テキストには常に解釈の揺れはあります。増して今回のような1on1相談の口語的な文章は、状況依存的で解釈のふれ幅が大きくなります。こうした解釈の振れ幅を考慮せず「決めつけ」て糾弾してしまうとさすがにちょっとやりすぎではないかと思うのです。

「いやいや、幡野は前あんな記事を書くような人だよ?ゼッタイそういうやつだって!」と言う方もいらっしゃるかもしれません。でもそれは映画『すばらしき世界』で刑務所あがりの前科者がスーパーで買い物していただけで「万引きした」と決めつけられたのに似てはいないでしょうか。「いやそれは昔悪いことしたんだから仕方ないよ。自業自得だよ」と言いたくなるかもしれません。しかし、そうなりやすいからこそ、むしろバイアスで過剰に決めつけないように意識しないと、事実を歪めて「前科者」を出口のない分断に追い込んでしまいかねません。

幡野さんは本当に相談者を見下したりバカにしていたのでしょうか?相談者は冒頭の回答を読んで本当に嫌な気持ちになったのでしょうか?深刻な相談だからこそあえて軽口から始めたのかも知れませんし、相談者がそれで救われたところもあるかもしれません。それはどこまでいっても「受け取り方」の揺れの中にあるので、「決めつけ」るのは少し行き過ぎであり、当事者の気持ちをなおざりにした代理戦争にさえなりかねないと思います。


note社の問題点に関する意見

以上の通り、今回のテキストに関する僕の感想は(前回の炎上記事と比べ)いくつか問題点や説明が足りない部分はあるものの、「悪」というほどでもなく幡野さんなりの真摯な回答、というものです。たしかに賛否のある文章でしょうし、配慮不足な部分もあるし、「完璧」でも「正しい」ものでもありませんが、相談者にとってある種の救いやアドバイスとして価値はあると思うのです。

ちょっと問題はあるけれども、あえていえば「完璧」でも「正しい」でもないからこそ、救いになることだってあるのではないでしょうか。みんなが「正しい」答えしか書いてはいけないなら回答は同じようなものになってしまいますし、先に書いたように「正しさ」は息苦しさや罪悪感を強めてしまうこともあるのです。ある意味では、相談者がわざわざ幡野さんを相談相手に選んだのは(そしてよく幡野さんの相談を読んでいるファンだったなら)、「模範解答」ではない意見こそが聞きたかったのかもしれません。


そうした感想を持つ僕にとっては、今回の記事そのものというよりnote社のその後の対応に疑問を感じます。

cakesを運営するnote株式会社はハフポスト日本版の取材に対し「当該記事は、編集部の判断で削除しました」と回答。削除に至った経緯や、公開前に編集部では性暴力や虐待に関わる相談であることについて把握していたか、記事中の回答について議論はあったのかなどの質問については「個別記事の詳細については、回答を差し控えます」と答えなかった。

と、noteは一方的削除の上でノーコメントを貫いています。


しかし、先程引用したsuzukiyuinさんのnoteにあるように、cakesはnoteとはちがい、編集者が入ったプロの媒体です。

2012年リリースのcakes(ケイクス)は、著者ひとりづつに編集者がついたプロ用、記事の公開判断には編集部が権限を100%持つ(書き手はプロフィール欄含め一切自分で触れないしアップロードできない仕様=cakes編集者のみ公開出来る)

記事の公開は幡野さんによるものではなく、編集部が記事への最終責任をもっているのです。

上述のとおり、僕は今回の記事には色々誤解をまねく表現や配慮の不足はあるものの、幡野さんなりの真摯な回答だと感じました。編集部もそう感じ、相談者への回答として価値があると思ったからこそ、この記事をPublishしたのではないでしょうか?

だとすれば、著者に断りなく記事を削除しノーコメント、ではなく、publishの判断をした編集方針をはっきり示し、問題箇所や指摘を受けたところには追記や補足をし、一つ一つ誤解を解いていく、というのがnote社が記事に権限をもつ「編集」としてすべきことではないでしょうか?

(先日日経でも炎上した記事があり、「(一部不適切な表現があり、筆者の承諾を得て当該部分を削除しました)」という対応が取られました。部分削除がベストではありませんが、最低限、著者と相談して文章を見直すことはできたはずです)


現状のnote社が記事を削除してしまうという対応は、「幡野氏記事は不適切」という烙印をnote社の判断として押し、全否定したに近い行為だと思います。しかしそもそもpublish判断を編集部がしていたとしたら、これは著者と編集の関係としては正に「はしご外し」です。さらに自らの権限でpublishし、自らの判断で削除まで下にも関わらず「ノーコメント」と言うるのは責任逃れでしかなく、その責任回避のせいで批判が著者にのみ集中しており、個人攻撃や吊し上げになってしまっています。


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このようなnote社への意見をnoteを通じて書かねばならない、というのは残念な事態ですが、むしろnoteをたくさん使っているnoteっ子だからこそnoteで書くべきだとも思いました。素敵なnoteの世界をつくりクリエイターを応援しているnote社のメンバーにはきっとこうした問題点を感じ、改善していきたいと思っている方もいるはずです。経営陣を含め、note社のみなさんに書き手としてのこうした意見が届き、「ほとぼりが冷める」のを待つのではなく「編集部」として本気で改善に向けて議論していただくことを願ってやみません。


冒頭で述べたように、これはあくまで僕のいち意見です。理解が浅いところもあるでしょうし、「炎上案件」に口を突っ込むと多くの反論や批判があることも予想されます。しかし、「正しさ」だけで誰かを切り捨てたり、「正しさ」が社会的・肉体的な死に誰かを追い込んだり、「言葉狩り」や「ポリス」の名を借りたリンチが起こっている中、「正しさ」だけの窮屈な社会にならないためにはそれぞれが意見をしっかり述べ、それをもとに議論することこそが必要と考え、自分の意見を書きました。


日頃ジェンダーギャップについて発信しているくせに幡野氏を養護するのか、という批判や、性暴力や虐待に対して闘うのにそんな生ぬるい態度ではダメだ!というお叱りを受けるかも知れません。また、運営会社への批判を書いたことでこの記事やアカウントが消されたり日経COMEMOから外されるなんてことになったらどうしましょう。しかし、それでもやはり正直な気持ちをnoteにしたためておっとこんな時間に誰か来たようだ

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