こんにちは。めがねシャチョウです。今日は、ユニクロについて話したいと思います。


補足の情報としてお伝えしておくと、ユニクロと言えば、アパレル業界の世界売上高ランキングで3位にまで成長しています。

1位:インディテックス社(スペイン)
2位:H&M (スウェーデン)
3位:ファーストリテイリング(日本)
4位:Gap (アメリカ)
5位:Lブランズ(アメリカ)

1位のインディテックス社は、皆さんご存じのZARAですね。売上で3兆円を超えています。3位のファーストリテイリングの売上は2兆円を超えるくらいなので、ぜひ1位を目指してもらいたいですね。

ちなみに5位のLブランズは、下着のビクトリアシークレット、などを保有しています。


めがねシャチョウもご存じの方いらっしゃるかもしれませんが、Oh My Glasses TOKYOというメガネ屋のオンラインストアと眼鏡屋の実店舗を経営してるんですが、小売業の経営者、としても、ユニクロは別格なんですよね。そのすごさ、を紐解いていきたいと思います。

で、ユニクロの本、代表の柳井さんが書いたものも、他の人が書いたものも、たくさん出ていると思うんですが、一番お勧めなのが、代表の柳井さんが書いている一勝9敗、という本です。2006年に出た本なので、もう15年近くになりますけど、今読んでも勉強になることが多いです。

(1) ユニクロのはじまり

実は、ユニクロの柳井代表は、創業者じゃないんですよね。
35歳のときに、柳井氏の父が経営する小郡商事株式会社の専務取締役だったんですが、そのときに、広島市に「ユニーク・クロージング・ウェアハウス」という名称のカジュアルウェアの小売店をオープンしたのが、現在のユニクロのはじまり、と言われています。1号店のオープンは、今より36年前の1984年でした。

元々、柳井氏は、大学卒業後、スーパーに就職しますが、10か月で退職し、その後、ニートのような生活をしていたといいます。ちなみにそのスーパーというのは、ジャスコで今でいうイオンですね。父に勧められて入社したとのことです。

その後、父親の経営する洋服屋「小郡商事」の後を継ぎ、現在のユニクロの前身となる「ユニーク・クロージング・ウェアハウス」をオープンした35歳のときは、小郡商事で働き始めて12年目のことでした。

ちょうど当時1983年前後には、日本でもデザイナーブランドやキャラクターブランドの高価な洋服が売れ始めた時期で、俗にいう、DCブームが起きていた時期でした。ただ、やはり洋服は高価でしたので、10代の子供には手が出せませんでした。そこで、10代の子供たち向けに流行に合った低価格のカジュアルウェアをセルフサービスで提供できないだろうか、と柳井氏は思ったんですよね。しだいにコンセプトは固まり、いつでも服を選べる巨大な倉庫、という意味も込めて、店名のユニーク・クロージング・ウェアハウスも決まったのです。


(2) 店名を現在のユニクロへ変更

商売自体は軌道にのりましたが、柳井氏が気になっていたのは、店名でした。店名が長くて覚えにくいのではないか?

いくら柳井氏の思いが込められていても顧客に覚えてもらえなければ意味がありません。そこでデザイナーに頼んで名前を縮めてもらいました。そこで生まれたのが現在のユニクロです。最初は、ユニとクロの間に点が入っており、ユニ・クロ、でした。

で、その時のロゴは"UNICLO"だったそうです。

それから4年後の出来事でした。
香港で現地のパートナーと合弁で商品のバイイングの会社を設立しようとしたときに、そのパートナーが間違って、UNIQLOとCを間違ってQにして、登記してしまったそうです。

それを見た柳井氏が修正をさせるどころか、むしろ"Q"のほうが格好いい、ということで、そのタイミングで日本の店名も全て現在のUNIQLOに変更してしまったそうです。

(3) 社名変更、ユニクロの店舗展開を決意

元々、ユニーククロージングウェアハウスをオープンするまで、小郡商事は、紳士服中心にやってました。事実、柳井氏が継いだ1972年当時、年商1億円程度で、紳士服店が1店とカジュアルウェアのVANショップが1店でした。

先ほど話したユニクロ1号店で成功し、いけそうだ、という感触を得たため、ユニクロ業態の更なる展開のため、柳井氏は物件を物色しはじめます。

ユニクロを4店舗まで出店した段階で、更なる拡大に向けて、フランチャイズでの更なる拡大を開始します。

直営店だけだと、設備投資資金もかさんできますが、フランチャイズ方式だと、設備投資資金がかからずスピーディに展開できます。ユニクロ1号店がオープンした1984年から2年後の1986年には、ユニクロは既にフランチャイズ2店舗を含めると7店舗、1987年7月期の売上高は22億円、経常利益は6500万円まで成長していました。

ここで柳井氏は更なる拡大に向けて株式公開を目指すことになります。
会社の成長のためには、設備投資資金を得たり、出店地域の確保もそうですし、優秀な人材も必要です。
めがねシャチョウもOh My Glasses TOKYOの出店で実感していますが、信用の無い会社には良い土地も貸してはくれません。

今後、出店のペースをあげていくため、急成長するためには、株式公開を通じで、潤沢な資金を得るしかない、と柳井氏は考えたのです。

1991年9月、柳井氏は、社名を小郡商事から、現在のファーストリテイリングに変更します。

社名変更は、ユニクロの商品をいずれ、カジュアルウェアのスタンダードにしていきたい、というかねてからの柳井氏の思いを込めたもので、それを実践するための行動指針を表したもののようです。

直訳すると、ファーストリテイリングは、早い小売、となります。つまり、お客様の要望を素早くキャッチし、それを商品化し、店頭ですぐに販売する、という意味だそうです。

また、社員や取引先にも大胆な出店計画を発表するのです。

「今から本格的にユニクロを全国にチェーン展開します。毎年30店舗ずつ出店し、3年後には、100店舗を超えるので、そこで株式公開を目指します。」

柳井氏は宣言しました。

柳井氏がまさにこれまでの商売人から、経営者に変化していく時期でした。

当時発表した年間30店舗をこれから出店していく、という計画は、当時のユニクロの店舗数が29店舗だったことを考えると、いかに大胆な計画だったか、というのが良く分かります。

柳井氏は、商売と経営は違う、と言います。
公開準備作業を進めながら同時進行で経営者になる努力をした、と後から振り返ります。

(4) 上場までの不安

その後、1994年5月に広島証券取引所に上場することになりますが、それまでの91年から93年ぐらいまでは、柳井氏は不安の募る日々を過ごすことになります。

その間、銀行からの借り入れがなかなかうまく進まず、資金ショートの不安でいっぱいだったそうです。柳井氏本人や、柳井氏の父の個人資産も全部担保に入っている状態であるのに関わらず、その評価を見直しを試みて、少しでも余分に借り入れをしようと画策していました。

既に銀行の支店長の決裁権限も越えてしまっているのでなかなか追加で貸してくれないが、新店オープンの場合、事前に保証金なども振り込まなければなりません。成長路線にはのっているものの、この上場までの数年間は、柳井氏は、薄氷の踏む思いで、資金繰りに追われることになります。

いよいよ上場、というところまできた93年8月末には、直営店が83店舗、フランチャイズ店舗も7店舗まで増えており、売上高は250億円、経常利益でも21億円にまでなっていました。

94年4月には予定通り、直営店の数は100店舗を超え、109店舗になり、5月初旬に上場を果たすことになります。上場により一夜で134億円の資金の調達に成功します。

広島の証券取引所に上場した直後から、次は東京証券取引所に上場する、という目標を掲げた柳井氏は、97年には、東証2部、99年には東証一部に上場することに成功します。

(5)伝説のフリースブームと原宿店オープン

めがねシャチョウは30代後半なんですけど、我々の年代だと、ユニクロで覚えているのが、原宿店のオープンと当時、時代を賑わせたフリースブームなんじゃないでしょうか。

柳井氏は、当時から、ユニクロをアメリカのギャップなどに並ぶような、その国を代表するようなファッションのチェーンストアにしたいと願っていました。

そこに到達するにあたって、柳井氏は、ブランドを確立することと、やはり他社と違うことをやっていかないと考えていました。

既にユニクロは全国展開しており、カジュアルウェアの専門店チェーンでは売上高日本一になっていましがた、都心での知名度はまだまだでした。

そこで、日本国内のファッションの中心である原宿に店舗を出したいと考えるようになったのです。

ただ、あれだけ数多くのアパレル店舗がひしめいている中で、何か商品を絞って、訴えない限り、来店してもらえない、そこで原宿店オープンのタイミングにあわせてやったのが、伝説に残る「ユニクロのフリース 1900円」というコピーのキャンペーンです。

このキャンペーンは大成功し、お客様が長蛇の列をつくり、連日、ファッション雑誌やテレビ番組で取り上げられるようになった。爆発的な売上を達成した。

柳井氏はこの時の大成功を、①商品を絞り込んだこと、②良質な商品を1900円、という手ごろな価格にしたこと、③そして、新鮮味のある広告宣伝をしたこと、の3つの要因と振り返っている。

ここまでのユニクロのイメージは、まさに安かろう悪かろう、だったが、原宿店の出店とこのフリースのキャンペーンがターニングポイントになり、安いけど、品質が高い、という新たなユニクロのイメージができあがっていきました。

まさに、今の安くて高品質のユニクロへ転換したユニクロの歴史の中で歴史的な出来事だった、と言えます。
結果的に、このフリースは、1200万枚の売上目標のところ、実際には、2600万枚を売り上げる当時のユニクロ史上最大のヒット商品になりました。

今回は、割と、公開情報、というかユニクロの経緯とか歴史を共有させていただきましたが、ニーズがあれば、ユニクロの組織とか、商品力とか、はたまた柳井氏の経営哲学とか、シリーズ化していきたいと思っています。

以上、めがねシャチョウでした。


とにかく、皆さまの健康と幸せ、そして世界の平和を心から祈っています。

ありがとうございました!


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