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東京の昭和的ホテルに泊まりたい。

1990年代後半から2000年代にかけてのおよそ10年間、日本での常宿は品川駅の高輪口にあるホテルパシフィック東京でした。コンシェルジュをはじめとするスタッフの方々とも顔馴染みとなり、「我が家」の心地よさを感じていました。もちろん、欧州の誰かと一緒に日本に行った場合も、このホテルです。

2010年、何度も泊まったアイルランド人の友人は、下の写真のように、ホテルのコースターを額に入れてプレゼントしてくれました。裏には「食べて飲んで共にビジネスをした思い出に」と英語で書いてあります。ホテルが閉鎖されると知って、こうした心遣いをしてくれたのでした。

ダブリンにいる友人がホテルのコースターを額に入れてプレセントしてくれた。

ホテルパシフィック東京にはハーバーショップ佐藤という床屋がありましたが、ここは俳優の高倉健が毎日通っていたところです。ぼくの友人はそういうエピソードはまったく知らずして、この床屋を大層気に入り、何度か散髪したようです。

グランドプリンスホテル高輪も昭和的なノスタルジックな雰囲気があり、「ホテルパシフィック東京亡きあと」は、このようなタイプのホテルにも泊まってきました。紀尾井町にあるホテルニューオータニも同じカテゴリーに入るでしょう。面白いのは、そのような場を好むのは、ぼくが昭和生まれだからだけでなく、ぼくがつきあう欧州人も同じ感覚をもっていることです

インバウンドには外資系高級ホテルが向いていると言われることが多いですが、どうも一律的に過ぎる見方でぼくは落ち着かないので、以下のような記事に目がいきます。

少々、長いですが、引用しましょう。

外資ホテルが増え、結果インバウンドが増えるのはよいことだが、改めて考えさせられる。日系ホテルの強みとは何だろう

帝国ホテルにこんなエピソードがある。従業員がルームサービスを届け、閉じた扉に向かって頭を下げたところ、その様子にゲストが感激したそうだ。こうした「さすが帝国」と評価してもらうための活動を20年以上続けている。部屋の狭さや天井の低さなどのハードの弱みを、日系ホテルはこうしたおもてなしの力で補ってきた

おもてなしこそが日系ホテルの強みなのは間違いない。ただし課題は日本のサービス産業の生産性が海外より低く、従業員の賃金水準も安い現実だ。対価をきちんと受け取れていないのに評価されていると言えるのだろうか。文化的に対価を求めないとしても、ビジネスの中に位置づけるならサービスとして対価を求めるもののはず。顧客満足向上のために「ゲストの喜ぶ顔を見たい」という働く人のマインドに頼っているように思えてならない。

日本のホテル文化は持続可能か 「おもてなし」の行方

東京に行って非日系ホテルに泊まる意味は?

日本に滞在するなら、畳のある旅館に滞在してみたい、との欧州人の要望は強いです。ただ、毎日、ビジネスで宿屋と出入りすることが多く、夜も外で会食をすることを考えるとホテルを選択せざるを得ない。そうすると、日本的なムードを求めることになります。日本に行って、どうして米系や欧州系のサービスを求めるのだ?と。

この時の「日本的なムード」とは、(ニューオータニやグランドプリンスホテル高輪のように)日本庭園があるのもさることながら、サービスマニュアルが(一見)不在であるかのような振る舞いがスタッフのサービスにあるか?です。自発的に、あるいは思わず日本文化に発する行為がでてしまう、というシーンに遭遇するかどうか、です。日本庭園がなくても、東急系のホテルも同様の印象をうけます。

ソフィア・コッポラの監督・脚本の『ロスト・イン・トランスレーション』にある、外国人の尊厳など無視したかのような日本流の押しつけと紙一重で成立するサービスに「日本に来てよかったなあ」と思うのです。これを上記の記事にある「おもてなし」と同一視すると、ちょっと違うのでは?と思います。

日本の人たちが自らステレオタイプ化したサービス

上記の記事に以下のエピソードがあります。

帝国ホテルにこんなエピソードがある。従業員がルームサービスを届け、閉じた扉に向かって頭を下げたところ、その様子にゲストが感激したそうだ。こうした「さすが帝国」と評価してもらうための活動を20年以上続けている。

日本のホテル文化は持続可能か 「おもてなし」の行方

この扉に頭を下げるのは、東京駅で新幹線の車内掃除をする人たちが新幹線の車両に頭をさげると同じ精神構造からの表現だと思います。確かに、この姿を喜ぶ外国人と一緒にいたことは何度もありますが、これが日本的サービス「おもてなし」だと日本の人が語るほどには決定打として欧州人の目には映っていない、とぼくには見えます。

欧州では見ない行動だから、好奇心にかられてスマホで撮影しようとはする。しかし、以下に書いたように、日本の不思議を体験したいから旅心がそそられるのであって、その不思議は日本の人が意図的にやっていない行為そのものに潜んでいるのです。

日本のインバウンドやホスピタリティ産業で語られる日本らしさとは、どうも頭で自らの文化を分析して、それを分かりやすく表現しようとの下心が透けて見えすぎです。つまり、自らがステレオタイプをつくり、それを演じていれば外国人は好意的に受け入れる(はず)と思っている節があるのです。実は、このような方向と(意図せずして)距離をもっているのが、日系ホテルではないかと思います。

例えば、イタリアのホスピタリティ産業で受けるサービスの質は、凸凹でありながら、とても高いです。凹を経験しても、マイナス経験を補ってあまりある凸に遭遇する確率が高いからです。そして、この凸はサービスマンそれぞれのその場の機転で生み出されるもので、イタリアらしさの表現とはこうである、というマニュアルの存在を感じさせません。

それと同じ良さを日系ホテルで維持してきたのではないか、と思うわけです。したがって、上記の記事にある「部屋の狭さや天井の低さなどのハードの弱みを、日系ホテルはこうしたおもてなしの力で補ってきた」という部分に違和感をもつのです。そうなの?と。

自分たちのライフスタイルに自信をもつのがはじまり

もう一つ、記事のなかにある記述で疑問をもつのが「対価をきちんと受け取れていないのに評価されていると言えるのだろうか」です。というのも、「顧客満足向上のために「ゲストの喜ぶ顔を見たい」という働く人のマインドに頼っているように思えてならない」という前提が外れている気がします。

自分で勝手に対価を低くしていただけであって、「それを評価されているだろうか」との問うこと自体が不自然です。自分たちの生産性が低いから安価でサービスを提供すべきだ、などと考えていなかったはずです。働く人のマインドに頼っているのではなく、自分たちのライフスタイル自体に自信がないがゆえに、高い対価を設定する発想が生まれてこなかったのでしょう。これは日本の繊維産業について書いた以下の記事と絡んできます。

あなたも、我々と仕事をしたいなら、我々のようなライフスタイル哲学を良いと思うだろう?そう思わないなら仕方がない。だが、良いと思うなら、それなりの経済的評価もしてくれよ!」と価格交渉の際に言い切れないジレンマが生まれていると思うのです。

なぜ「生地の生産地表示」が一歩前進になるのか?ーLVMHの方針が指し示すもの。

繊維産業にせよ、ホスピタリティ産業にせよ、生産性の問題よりも自分たちのライフスタイルに自信をもつのが最初になるのです。どうも、ライフスタイルをスペック的に捉えているのが敗因であるように思えます。

(個人的な趣味を加えておくならば、高層ビルの一部の階に入っているホテルは泊まる気がしないです。建物一棟でホテルの看板を掲げているところが良いです)。

冒頭の写真©Ken Anzai


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