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お疲れさまです。uni'que若宮です。

今日はちょっと教育について書きたいと思います。


先進国で最低レベルの日本の教育のデジタル比率

いよいよ今年度からタブレット端末の配布がはじまります。

(記事中より引用)

この記事の中にありますが、日本の学校の授業でのデジタル機器利用は各国と比べて圧倒的に低いのが現状です。これは校外でのデジタル普及率の現状と比べると不自然なほどの低さです。

実際、うちでも自宅では子どもたちがはすでにラップトップもスマホも色々な機器やアプリを使っています(高学年にもなるとofficeはもちろんnotionやmiroを使いこなしている)。そんな中、学校教育だけかなり不自然に「デジタルから遠ざけられている」感じがします。

もちろん、環境の整備にかかる予算や平等性を担保するための調整など、デジタル化には色々な課題があります。しかし、こうした諸課題があるにしても、やはりあまりにもデジタル化が遅い気がするのです。

デジタル化の遅れの原因には、もしかすると「大人が本心では良しと思っていない」ということが大きな課題としてあるのではないでしょうか?


教育や子育てにおける懐古主義

もちろん僕も、何もかもデジタル化されたら最高!とは思っていません。紙の本の良さはありますし、鉛筆を使ったり細かな作業を実際に指先を動かしてすることの良さもあるでしょう。アナログにもデジタルにもそれぞれにメリット/デメリットがあります。

ただ、ツールは時代によって移り変わります。デジタルは身体性が失われるからやっぱりアナログに限る!と紙や鉛筆の良さを主張する方もいますが、じゃあだからといって、出来れば木簡や毛筆にすべき、とまでは言わないでしょう。技術自体がすべからく悪というわけではなく、一定程度まではその恩恵を受けることは許容しているわけです。

大学ではレポートのコピー&ペーストが問題視され、安易にコピーできることによって文字や文章の価値が希薄化している、という主張もまことしやかに語られます。僕らの親世代の頃にはコピー機すらなく論文は基本的に手書きで、主/副の二部用意せよと言われればもう一部を手書きで書き写していました。そうやって論文を物した先達たちからみれば、はじめのうちはコピー機で複製をするなんてことは怠惰で軽薄なことに思えたでしょう。「ちゃんと手で書き写していた頃はもっと言葉に魂がこもっていたものだ」なんて言ってたかもしれません。


日本の教育や子育てにおいてはしばしば懐古主義や自然信仰が強すぎる感じもあります。やっぱり自然分娩が一番とか「おっぱい右翼」とかに始まり、通学グッズやお弁当の手作り至上主義、シャーペン禁止などなど、教育の場においてもテクノロジーで「楽」するのは邪道で、なるべく苦労するほうがいい。もしくは理由はないけど「昔ながら」のものを使うほうがなんとなくいい、という信仰っぽいものもあります。

そしてこうした信仰では、しばしば「人工/自然」という二項対立が導入されがちです。まだ小さく塑性が高い子供はなるべく「人工物」に触れさせずに、なるべく自然のまま育てよう、という感じに。

僕も1割くらいはこれに同意します。たとえば赤ちゃんをあやすの大変ならずっとVRゴーグルをつけて寝せておくといいよ、と言われても、なんか身体に悪影響が出そうだし止めといたほうがいいんじゃ、、と思うでしょう。また、筋力やその他の身体の発育は実際に身体を動かすことによってなされるところもあるので、子供が全く運動せずスクリーンの中の世界だけで生きていたらやはりちょっと心配です。


ただし、一見「自然」に見える古いやり方も本来的には自然でないことは多いものです。先程の鉛筆や紙の例のように、それもすでに一定進歩した「技術」や「人工物」によりますし、よく調べるとまったく近年につくられた「(むしろ不自然な)ただの因習や迷信」だということもあります(練習中水飲まない、とか、うさぎ飛びとか)。こうした時の「人工/自然」という二項対立は、しばしば恣意的で相対的なので注意が必要です。

また、「身体」というとあたかも自然のように語られがちですが、実は生きている身体は技術や人工物も含んだ身体です。

メガネをかけた人の身体は、メガネによって視覚を拡張された身体です。自転車に乗ることで僕らの足は拡張され、インターネットによって発信や交流の範囲や頻度は拡張されますし、知覚も変容しています。実際に生きている身体は技術や人工と排反するものではなく、接合されそれを内包したものではないでしょうか。

このように「身体」を捉えると、むしろ現代の社会を生き抜いていくための身体性とは、ある種の「テクノロジー的な身体」であり、それを育てる視点も重要、という考え方もできます。まったく技術に接しないままに育った身体は、狼に育てられた少年が人間社会を生きていけないように、却って社会から隔絶されてしまうかもしれないからです。

さらにいえば、子どもたちは、今の大人たちよりも「未来の社会」に生きるのです。だからこそ自分たち以上に新しい「未来の身体」が必要となるのですが、教育における懐古主義はこうした可能性をむしろ閉じてしまうかもしれません。


大人が子供をリスクから「隔離」する教育

懐古主義は、あるいは大人の「リスクを避けたい、リスク管理したい」という不安の裏返しかもしれません。

人間、すでに経験があることのほうが「安心」です。自分たちも子供の頃経験したものが「安心」で、自分が子供の頃になかったものを子どもたちに使わせるのには「不安」もあります。

こうしたリスク回避のために、リスクがあったり不確実なものからは「とりあえず子供を遠ざけておく」ということが起こりがちです。デジタルやインターネットに触れさせると事件に巻き込まれたり悪用するかも知れないから使わせたくない、という大人はけっこういるのではないでしょうか。


テクノロジーだけでなく、性教育(ビジネスもそうかとしれません)に関しても似たような状況があります。先日clubhouseで日本の性教育について話した時にも話題に出たのですが、

日本の性教育が遅れている原因には、こうした「とりあえず子供を遠ざけておく」という大人のスタンスのせいもあると思います。

日本の学校の中では、性交や避妊の仕方など具体的なセックスの話が教室でされることはほとんどありません。また、性教育の必要性についての話になると「まだ早い」「そういう知識をつけると却って性が乱れる」なんていう反対の声が出たりします。結果として学校や家庭では「セックス」は「まだ無い」ことにされています。

そうしてオフィシャルには「まだ無い」事になった結果、正しい知識を得られないままに水面下でことは進みます。僕も中学時代、けっこう田舎のヤンキー文化の中で育ったので、周りでは知識がないままになかなかに危険な性事情が水面下で進んでいました。仮に中高でそこまでにならなかったとしても、「無菌室」で育てられすぎると免疫がなく、大学や社会に出た途端に危険な目に遭ってしまったりします。

こうしたことを避けるためには「まだ無い」ことにして遠ざけてしまうのではなく、徐々に触れながら付き合い方を知ってもらう方がよいはずです。

もちろん、何でもオープンにするだけがいいわけではありませんし、年齢や時期によってはあまりに早いと劇薬にすぎたりアナフィラキシーショックを起こしたりしてしまうこともあります。

大事なのはリスクの範囲に注意・確認しながら、徐々に運転に慣れていくことでしょう。自転車にも乗ったことがない状態でいきなりハイウェイでクルマを運転すれば事故るに決まっていますし、その事故は取り返しのつかないほどのものになります。多少失敗したとしてもぎりぎり大丈夫な範囲を見極めながら、徐々に範囲や自由度を広げ、スピードを上げていくべきでしょう。

何をどこまで許すか、どこまでをオープンにするか、という線引きは禁止するのに比べると一律にはしづらいですし、より丁寧なそれぞれの状況に合わせたサポートが必要になり、かなり面倒です。そしてそれを許可することで大人もリスクへの責任持つことになりますから要は大人にとってちょっと大変なのですね。

しかし前述のように、こうした大変さを厭って「まだ無い」ことにして大人が責任を逃れても、結果としてその先より大きな事故に巻き込まれるリスクがあるのです。


たしかに、テクノロジーや性教育などコントロールが難しいものからは、子供を「隔離」しておく方が楽だったりします。しかしこうしたところから「事なかれ主義」で偏見や因習の再生産が起こってしまうのです。(たとえばほとんど根拠のない校則が令和の時代にも存在していることはこうした「事なかれ」主義の結果でしょう)


ちゃんと教えようとすることは、そのリスクを含め大人も一緒に考え、都度色々試したり失敗したり、ということに巻き込まれることでもあります。それはたしかに手間がかかりますし大変ですが、大人もそこから逃げず、ちゃんと引き受けていくことが重要ではないでしょうか。

そしてこれは言うまでもなく、学校だけの責任ではありません。家庭や社会のいろいろな場所で、「子どもだから」と隔離したり「事なかれ」をすることなく、不安やリスクを一緒に引き受けながら、子どもたちといっしょに新しい可能性を開いていけたらいいですね。

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