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多くの異国料理を経験すると、国際的な感覚が増すのか?

先日、イタリアの名の知れたデザイナーと話していたとき、彼が、次のように語りました。

「ミラノには今や、各国の料理の店がある。インド、タイ、日本とたくさん。ずいぶんと食事情が変わった。自分は70代だが、和食も食べる。しかし、自分の父親の世代では、決してそうではなかった。イタリアの地方料理しか食べない、というのが基本の姿勢だった。結果、今、イタリア人のメンタリティも開放的へと変化してきているのだろう」

ぼくの知っているミラノのおよそ30年間で、彼の指摘することは実感しています。1990年代はじめの外国料理といえば、中国料理とわずかな和食くらいで、ロンドンやパリでは多かったインド料理やベトナム料理はまだまだ少なかったです。

スペイン料理やフランス料理がもっとあっても良さそうなのに、「近すぎる料理」もあえて探さないと見つかりませんでした。それはパリにイタリア料理店が目立つのとは、違った特徴をもった現象です。フランスにはじまったヌーヴェル・キュジーヌがイタリアでイタリア料理(クチーナ・ヌオーヴァ)として本格的に普及をはじめたのは、1990年代半ばです。

しかも、イタリア料理ではなく、地方ごとの料理を食べることが「日常での家庭の基本動作」であったにも関わらず、トスカーナ料理の店が全盛だったように見えたのは、なぜだろう・・・。

今はプーリア州、シチリア州、サルデーニャ州などの南の料理の店が多くなった一方、ヴェネツィア料理の店などはあまりないです(だいたい、家で「イカ墨のスパゲッティ」を食べているミラノ人の話を聞くことは少ないし・・・)。これは移民という人口動態と各州の観光政策とも関係しているでしょう。

いずれにせよ、まだまだ食に保守的な面も強いにも関わらず、それでもスーパーの魚売り場の面積は広くなったのは現実の変化として確認できます(いや、1990年代前半、魚売り場なんてないスーパーが多かった)。また、1989年以降のスローフード運動の浸透で、この10年くらいでミラノのあるロンバルディア州料理の店も目立つようになりました。

料理は実感や実践というレベルで、異文化を理解するに絶好の領域だと認識されています。ぼくも、2015年のミラノの食の万博の時期、そう考えて食に関わるワークショップなどにいろいろとかかわりました。ミラノがあのタイミングで万博のテーマを食としたのは、今、考えても秀逸だったと思います。

今、若い子たちの間で、ビーガンやベジタリアンが増えていますが、この現象も、この5-6年の間に目立つようになりました。気候変動に対する危機感が動機として大きいです。

そして、冒頭のデザイナーが指摘するように、外食の選択肢は広がったのです。

ここまでは、デザイナーの台詞のちょっと長い解説です。ぼくが「はて?」と思ったのは、実は「結果、今、イタリア人のメンタリティも開放的に変化してきているのだろう」の部分です。

確かに、違った種類の料理を口にするようになれば、より異文化に敏感で、かつ寛容な態度が広がるような気になります。しかし、ぼくが彼に問うたのは、次のことです。

「それは確かだろうが、ぼくの日本での経験からすると、楽観的な見方を一律にもちずらい。ご存知のように、日本には世界各国の料理の店が、少なくても30年以上も前からある。それだけでなく、家庭においても、和食に加え、インド料理、中華料理、イタリア料理と、ローカライズした料理が定着している。だが、日本の人の国際性をみるかぎり、多くの国の料理を知れば、国際的なメンタリティになるとは言い難い。これを、どう判断すれば良いと思うか?」

もちろん、デザイナーが即答できるような内容でもないので、あくまでも、今後、考えていくべきテーマとして提示しました。

しかし、冒頭のような会話を交わしたとき、この一般化に説得性はあるのか?と思ったその根拠が日本の例だった、ということにぼくも我ながら戸惑ったのです。

多分、異文化料理経験と国際感覚の関係に関しては、世界でも例がないほどに日本にデータがありそうでいて、実は何もないのでは?と思わないでもないです。なぜ、そうしたデータがないのか?との理由を探ることに意味があるような気がします。

写真©Ken Anzai


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