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ライフorワーク? 「ライフワーク」について考える

お疲れ様です。メタバースクリエイターズ若宮です。
今日は「ライフワーク」について書いてみたいと思います。


「ライフかワークか?」という問い

ライフワークについて書いてみようと思ったのは、ちょっと前にVoicyで「ライフかワークか?」というトークテーマがあり配信したのがきっかけです。

「ライフ」と「ワーク」、日本語に訳せば「生活」と「仕事」ですが、二者の関係は時代とともに変わってきています。

昭和の時代、日本は高度経済成長期を経験し、僕らが小学生だった頃にも「仕事人間」という言葉があったり、「24時間働けますか?ビジネスマン」という標語がCMで連呼され、(特に男性は)仕事を優先して育児や家事には参画することはほぼなく、時には生活や家庭を犠牲にして没頭する時代でもありました。

しかし、生活を犠牲にしてまで仕事に打ち込むことが本当に幸せなのかという疑問が持たれるようになり、「ワーク・ライフ・バランス」が言われ、ワークとライフのバランスを取ることが注目されるようになりました。


さらに今では、「ワーク・ライフ・バランス」から「ワーク・ライフ・インテグレーション」へということも言われたりします。

「ワーク・ライフ・バランス」ではワークとライフのバランスをとろう、としている点で「ワークとライフは別々」というのがベースにあります。(ライフ「か」ワーク「か」というORの問いも両者が別という前提ですよね)

「ワーク・ライフ・バランス」に対し、そもそもライフとワークが一つながりとして捉える。働くことと生きることはそもそも一体だよね、という感じ。僕自身、起業してからはとくにワークとライフの境界が溶けていく感じがしています。


今回は、ライフとワークの関係とその変化について、3つの視点から「ライフワーク」について考えてみたいと思います。

①経済的側面:「ワークは生産」で「ライフは消費」?

「ライフワーク」は、「人生をかけてする仕事」とか「天職」という意味があり、必ずしも職業としての仕事に限らず人生を豊かにするものだと思います。

これに対して「ライスワーク」という言葉があります。

「ライスワーク」が強調しているのは、ワークとは食うため、つまり「稼ぐ」こと、という観点です。

「ライスワーク」は稼ぐため、と対比されると、「ライフワーク」はどちらかというと「稼ぎや儲けにはならないのだけど」というような非営利的活動を指して言われがちなところもあります。

経済活動として「ワーク」と「ライフ」を考える時、ざっくりいうと「ワークは生産、ライフは消費」といえるかもしれません。ワークは生産によってお金を稼ぎ、ライフはお金を使って消費する。


ワークでは何かを作り出したり提供したりして、その対価としてお金を得ます。一方、ライフは(少なくとも昭和までは)消費が中心。ワークによってお金を得て、そのお金を使って食事やレジャーなどライフを楽しむ、というのが従来型のワークとライフの関係だったかもしれません。


しかし、この「ワークは生産、ライフは消費」という区分は徐々に曖昧になってきているでしょう。例えば最近では、仕事以外の余暇にも地域のコミュニティの活動に関わったりプロボノをしたりと、単に受け身での消費ではなく価値を生むことを楽しむ人が増えています。そうした活動がやがてお金を生むようになっていったりして、ライフとワークがつながり、「ライフワーク」になる感じもあります。


ワークも単に「お金を稼ぐため」ではなくなってきています。とくにZ世代では年収の多寡よりも充実した仕事や社会的価値を求める傾向も強まっていて、仕事の第一の機能は「お金を稼ぐ」だけではなくなってきていると言えるかもしません。


そう考えると、ここまでがワークでこっからがライフ、というように分かれているわけではなく、生産と消費がブレンドされ、グラデーションのように連続しているのが現代社会と言えるかもしれません。「ワーク」は従来はお金を稼ぐことでしたが、お金を稼がないワークやむしろお金を使うワークもあります。逆に「ライフ」はかつてはお金を使うものだったかもしれませんが、お金を使わないライフもあるし、むしろお金を稼ぐライフもあり得ます。


たとえばSNSでの発信ひとつとってもそれがワークかライフか?と言われると切り分けづらいところがあります。SNSのプラットフォームによっても仕事とプライベートの割合はちがうとおもいますが、仕事のためでもあり仕事の息抜きでもあります。仕事について発信しているので「ワーク」ではあるかもしれませんがそれでお金を得ているわけではなく、それどころかTwitterの場合「プロっぽい人」ほどブルーバッジに課金している、というのはよく考えると不思議です。


■自給自足ではワークとライフは溶けている

ここで、そもそも生産と消費って分かれているの?ということを考える必要があるかもしれません。たとえば一次産業や自給自足の生活について考える時、そこには僕らが抱いている「ワーク」と「ライフ」の区別があまりないように思えます。

自分の畑でつくったものを自分たちで食べて生きる、そんな生活スタイルでは、ここまでが生産でここからが消費、という線引きはあまり意味がありません。ましてはお金のやり取りはなく、自分たちが生産者であり同時に消費者でもある。それが自給自足というものでしょう。

自給自足ではないにしても、コミュニティという単位では一体であることもあります。(庭で取れた野菜をお隣さんにおすそ分けすることはワークでしょうか?ライフでしょうか?)


元々未分化のシンプルな生活スタイルから、生産が得意な人たちは自分が消費できる以上に多くを生産するようになりました。そうして役割分担とやりとりが生まれます。分担が高度化・細分化すると、生産するものの量や種類が増え、消費も多様化していき、それにつれて「ワーク」は徐々に専門的になり、ワークとライフが分離してきたのです。


そして生産と消費の分離の間を取り持つとともにその分離を加速したのが「お金」という媒介物です。かつ、お金は増加のモーメントをもっています。

自分たちで食べられる以上にたくさん生産し、余った分を他の人に提供すると、その対価としてお金が得られますが、この時余剰分が多ければ多いほどお金が多くもらえ、ライフにおける消費の原資であるお金を増やそうと、生産が増えます。

資本主義はこの余剰の車輪を際限なく回すことで拡大してきました。ワークをがんばって大量に生産し、得たお金で今度は大量に消費しライフを謳歌する、この余剰を拡大することこそが経済成長でした。しかしよくよく考えれば「余剰」とは無駄でもあり、資源の浪費です。ワークとライフが未分化であった頃から考えれば双方に無駄を生み出してしまっている。

サステイナビリティの観点から考えれば、ワークとライフの分化をもう一度見直し、ちょうど良い量で過不足なく暮らすことが重要になってくるはずです。(こうした方向性では経済活動は縮小するようにみえます。生産・消費の量は減りGDPが下がり、さらにいえばお金がやり取りされなくなればワークもライフもGDPでは把握不可能になります)

「ライフワーク」とは経済活動の観点からいえば、分化した生産と消費の再統合であり、それによって余剰のない知足のワークを目指すことといえるかもしれません。


②社会的側面:「ワークは誰かのため」で「ライフは自分のため」?

先程、ワークは生産し提供して対価を得る、と書きました。この意味で「ワーク」には「対他」の活動である、という側面があります。他者に価値を提供するからこそ報酬が返ってくるわけです。

先ほどの自給自足の生活についてもそうですが、(たとえば家庭菜園とか)ある活動が主として自分の楽しみであれば「ワーク」とは言えないかもしれません。

ただ、ここでも「ワーク」と「ライフ」は地続きです。最初は自分の楽しみでやっていたものが他の誰かに注目され、求められるようになって「ワーク」になる、ということはあるでしょう。


音楽をしている人などであるタイミングで「趣味」としてやっていくべきか「仕事」にすべきか、ということを悩む人は結構いる気がします。「自分の楽しみ」でよいのか「仕事」として音楽をするのか…。

これがジレンマであるのは、「ワーク」が「誰かのため」というモーメントを持っていることを示しています。自分の楽しみではなく「誰かのため」が強くなっていくと、そこには責任や義務の感覚が芽生えはじめます。元々は楽しくて仕方がなかったことも、「仕事だからやらないと」と思ってしまうと、楽しくなくなってしまうのです。


立ち上げたばかりの「メタバースクリエイターズ」でもこうしたクリエイターの活動のジレンマについてよく考えています。以前こちらの記事でも書いたのですが、

「仕事」になると創造性が下がってしまうこともある。

クリエイターの皆さんにとってコンテンツ作りはそもそもは楽しみであり、少なくともそれが一線も生み出さなかったうちにはまさに「ライフ」、他の仕事の合間の息抜きですらあったでしょう。楽しくて仕方かなったことも、お金をもらうようになると義務的なものになってしまう。

「ワーク」には他者志向のところがあるからこそ、それが強くなりすぎず「自分の楽しみ」でもあるちょうどいいゾーンで仕事ができるのが「ライフワーク」ではないでしょうか。


③時間的側面:「ワークは終わりがある」が「ライフは終わりがない」?

「ワーク」は他者志向とか義務とかいうと、ちょっと悪者というか、ワークっぽいものはよくない、という風に聞こえるかもしれませんが、僕はそうは考えていません。

「仕事だからやらないと…」と嫌々になってしまうのはいけないかもしれませんが、「仕事だからちゃんとやろう!」とか「がんばろう!」というのがモチベーションになったり集中力を生んで活動のクオリティを上げることもあります。

これは「ワーク」のもつ「おわり」の効果かもしれません。

先ほどの「ワーク」は他者への価値提供である、ということとも関連しますが、「ワーク」には基本的に「締め切り」があります。趣味でやっている場合とはちがって、ワークは「おわり」があるのです。

アート思考でもよく話しますが、「ワーク」には「作品」という意味もあります。作品を作品にするのは制作を「おわり」にする瞬間=「完成」なのです。(だからスケッチや手慰みで描いていて「おわり」を迎えていないしていないものは「作品」とは認められなかったりします)


なので、「ワーク」と日常の「ライフ」とのちがいは「おわり」があることかもしれません。「おわり」があり、その時点までしか手がかけられないからこそ「ワーク」にはある種の集中があります。

ライフが日常的で自分のためのものであり、とくにおわりがなく続くものだとすると、それだけでは張り合いがなく、人生は漫然としたものになってしまうかもしれません。「ワーク」という「おわり」をもったプロジェクトによって「ライフ」には起伏が生まれるのです。

とはいえ、「ワーク」は必ずしも完璧におわるわけではありません。一度で満足せず、同じようなテーマで生涯描き続ける芸術家がいるように、「ワーク」を繰り返しながらも満足することなく続いていく。ワークという短距離走のリズムによってライフが生き生き抑揚をもつ。そんな感じが「ライフワーク」なのかもしれません。



「ライフ」か「ワーク」か?

「ライフワーク」はその二者択一を超えて、単なるお金のためでもお金を使う消費でもなく、また他者のためだけでなく自分にとっても喜びとなるようなゾーンの活動です。そしてそれは人生を漫然と過ごすものではなく都度おわりをもった「ワーク」に彩られ、音楽のように続いていくものではないでしょうか。

「芸術は長く人生は短し」そんな言葉もあります。「ワーク」には「おわり」があると言いましたが、一方で優れたワークはおわったあとも、「ライフ」よりもながく残りつづけるかもしれません。

自分の人生を超えて残っていくようなワーク、一生の中でそんな「ライフワーク」が出来ることを楽しみに、今日もワークとライフを楽しんでいきましょう!

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