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マクロな主語、ミクロな主語 〜「群れ」や「個人」の分断を超えるための試論


こんばんは、uni'que若宮です。

先日、日経COMEMOのキーオピニオンリーダー仲間の市原えつこさんがこんなツイートをされていました。


あっ、これじゃない…


失礼しました。こっちです。

自我とか個体意識ってダルい」、なんという名言でしょう。僕はこの感覚、とても好きです。「個の時代」と言われて久しいですが、ときどき個体意識って辛くなる時もあるからです。そこで今日は、「主語」について書いてみたいと思います。


個と個はつらいよ

「個」というのは近代的な意識です。おなじく「自由」というのもそうですが、これは実は結構苦しいものです。

自著『ハウ・トゥ・アート・シンキング』でも引用した朝井リョウさんの言葉を引用します。

だけど人間は、自分の物差しだけで自分自身を確認できるほど強くない。そもそも物差しだってそれ自体だけで、この世に存在することはできない。ナンバーワンよりオンリーワンは素晴らしい考え方だけれど、それはつまり、これまでは見知らぬ誰かが行ってくれた順位付けを、自分自身で行うということでもある。見知らぬ誰かに「お前は劣っている」と決めつけられる苦痛の代わりに、自ら自分自身に「あの人より劣っている」 と言い聞かせる哀しみが続くという意味でもある。( 朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』)

嫉妬やマウント、劣等感。こういったことは「個」であることから生じる感情です。ですから、不安な「個」であるよりももっと大きいものに帰属することで、「苦痛」や「哀しみ」から脱したい、という気持ちが湧き上がります。


「主語が大きい」なら、とことん大きく。

しかしなにかに帰属することはその一方で、新たな対立や分断に巻き込まれる罠もあります。

「Black Lives Matter(黒人の命も大事だ)」のシャツを着用して人種差別の解消を訴える女性に対し、白人の男性が「白人こそが迫害されているんだ! おまえたちが人種差別主義者だ」と罵声を浴びせる場面もあった。

「黒人」「白人」という「集合体」。それが分断を生んできました。


僕の大好きなCMに、ハイネケンのこんなCMがあります。時間も4'32"(おしい!)と短いので、ぜひ最後まで観てから先に進んで下さい。


このCMでは、いかに「〇〇主義」というような集合体意識が分断を生んでおり、しかし個と個として向き合う力がその分断を乗り越えることができるのか、ということが描かれています。

「男性は」「女性は」「日本人は」ということば。最近では「主語が大きい」と言われますが、このような主語の大きさは個のちがいを消してしまい、「仲間」と、同時に「敵」をつくりがちです。

以前こんな記事も書いたのですが、「全体主義」が幾度となく世界史上の悲劇を起こしてきたように、人間は集団化するとしばしば「おかしく」なってしまいます。暴動、リンチ、ギャング、「群れ」の危うさです。


ではなぜ「群れ」は対立や分断を生むのでしょう?

「群れ」が対立するのは、それが有限な集合体であるからかもしれません。有限な集合は、内と外を生む。だったら、「無限な集合体」だったらどうなのだろう?と、考えた結果…


ここで1つ目の提案です。それは「主語」をめちゃくちゃ大きく取ってみる、ということ。覚悟して下さい。超でかいですよ?


そう、「宇宙は、」という主語で語ってみるのです。


「日本人て」「大企業の人って」「男ってやつは」「政治家って」、などなど。そんなんは中途半端なんじゃあああああああ。主語を大きく話しそうになったら、「宇宙は、」までいってみる。

宇宙は、なんでこんなに国籍で差別するのだろう?
宇宙が、前例を変えられないのってなんでなの?

いかがでしょうか?宇宙までいくと対象との境界がぼやけ自分もそこに含まれてくるので、誰かを責めるのではなく、構造の問題を考えるようになる感じがしてきませんか?


ふざけているように思われるかもしれませんが、僕は真面目です。そしてこれが意外と効果的なのです。「あの野郎!」とか「あいつらー!!」とか思うこともあるのですが、そんなときに「宇宙は、」っていうとなんかスーンってなって、自分もなんでか考えてみようっていう気になれる。

こちらも以前書いた記事で、「「批判」は、自己も含んだ批判でなければならない」というのを書いたのですが、「宇宙」には確実に自分も含まれるので、それにも通じるのかもしれません。


あるいは逆に、とことん小さく。

「〇〇って」という時、ひとは対象にレッテルを貼ってしまいがちです。行動心理学的には「帰属の誤り」というのですが(下記note参照)


実はこれは「集団」のみならず、「個人」に対しても起こります。

「だらしない行動をしたから、その人は根っからのだらしない人間」と決めつけるのは、単にわかりやすいラベルを貼っただけ(=利用可能性ヒューリスティクス)かもしれません。このような決めつけを「根本的な帰属の誤り」と言います。


先程のハイネケンのCMでは、「〇〇主義」という「群れ」の「レッテル」を剥ぎ、個と個で向き合うことで打ち解けることが出来たように思います。

しかし、実はここで起こっているのは「個」で向き合う、というより、個と個よりも小さい単位のコミュニケーションではないでしょうか。なぜなら、それぞれのペアは、相手の「個」を十分知らずにその瞬間、同じ目的のために作業をしたりビールを飲んだり、という限定的状況だからこそつながることができたからです。


平野啓一郎さんの「分人主義」をご存知でしょうか?

一人の人間は、「分けられない individual」存在ではなく、複数に「分けられる dividual」存在である。だからこそ、たった一つの「本当の自分」、首尾一貫した、「ブレない」本来の自己などというものは存在しない。

「個」人というと一つの「分けられない」統一体のようだが実は複数の「分けられる自分」の集合体である。


「分人主義」とは単に「分けられる」というだけではなく、「変化する」ということでもあると僕は考えています。

たとえば、会社で仕事をしているときと、家族と一緒にいるとき、私たちは同じ自分だろうか? あるいは、高校時代の友人と久しぶりに飲みに行ったり、恋人と二二人きりでイチャついたりしているとき、私たちの口調や表情、態度は、随分と違っているのではないか。


「個」や「自分」が「変化する」というのを前提として考えると、ある時の行動をそのひとの性質として帰属させるのもまた、「帰属の誤り」ということになります。(罪を憎んで人を憎まず、と昔からの諺にもありますが)


なのでここで2つ目の提案です。それは「主語」をめちゃくちゃ小さく取ってみる、ということ。「その瞬間〇〇は、」という主語で語ることです。


その瞬間〇〇は、なんでこんなに国籍で差別したのだろう?
その瞬間〇〇が、前例を変えられなかったのってなんでなの?


こうしてみると、「宇宙は、」と語っていたのとはまた違ったかたちで「集団」や「個」の呪縛から逃れることができます。

今この瞬間、僕のタイムラインにはたくさんの「感謝されるお父さん」がアップされています。「お父さん」も、いつもは疲れ、苛立ち、部下に当たり、知らず差別をしてしまっているかもしれません。でも今この瞬間、こんなに素敵な笑顔で、感謝される「お父さん」たちもいるのです。

なにか不満なことがあっても、「その瞬間はできなかったかもしれないけど、今はもう違うかもしれない」、そう考えると、差別や分断からすこし自由になれる気がしませんか?


宇宙と量子、そして動的平衡

まとめます。

1)「宇宙は、」という超マクロな主語で語る。
2)「その瞬間の〇〇は、」という超ミクロな主語で語る。


いつもやたら喩えが多い僕のCOMEMOですが、今回のはいつにもまして荒唐無稽に思えるかもしれませんね。。。「宇宙は、」「瞬間の、」とか…厨ニ感ェ…


でもこれ、実際にやってみると意外と効果があります。少しことばを変えてみるだけで、不思議と「群れ」や「個」の呪縛を越えることができるのです。


僕は宇宙物理学や量子論が大好きなのですが、何が好きだって「宇宙」というマクロコスモスと「量子」というミクロコスモスがつながってくることです。それらに比べると「群れ」や「個」というのはほんの仮りそめにつくられた境界や外縁なだけもしてきます。

この試みが僕を救ってくれるのは、スコープを変化させる、という効果があるからかもしれません。「個」や「群れ」に固着しそうになった時、「宇宙」というものすごく大きな視点になったり、「瞬間」というものすごく小さな視点になったり、揺れ動くということ。


アート思考が考える「自分」もまた「動的な自分」です。「自分」は固定的なものではなく、常に変化するものです。生き生きとしたメタファーが繰り返されるといつか単なる「クリシェ」になり「死んだメタファー」になるように、「自分」も放っておくと固化した「他分」になってしまいます。だから「揺れ動く」ということを大事にしていきたいです。


最後はまたなんだかすごい概念的な話になりましたが、お許し下さい。性癖です。

「日本人は」「親は」そして「私は」、そういうのまた「他分」になりがちです。縛られそうになった時は、「宇宙」と「瞬間」のことを考えてみてはいかがでしょうか。


でも、僕は葛藤する個も大好きです。アートってだいたいそうところから生まれてくる気もします。人間はときに愚かで、攻撃的だったり悲劇的だったりしますが、でもだからこそかわいい。




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