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令和の「和」と昭和の「和」

令和が始まって早くも2ヵ月を超え、orderly(「令」を命令の令、規律と解釈した場合)もとい”beautiful” harmonyという「超訳」もなんとなく馴染んで来た。令和がbeautiful harmonyなら、昭和はenlightened harmonyが通説らしい。世の中には二千以上も常用漢字があるのに、平成を挟んで、再び元号は「和」エンドに帰ってきた。

そもそも、「和」は日本人が大好きな概念だ。「和を尊ぶ」ことは良いことで、個人よりも集団の便益を重んじることが美徳とされる。滞在が浅い在日外国人や旅行者が賞賛する日本のPolitenessはこの精神を基盤としている。
確かに、穏やかで円滑に動く社会のためには、常に自我を押し通すよりも、他人を思いやったり、ある程度我慢したりすることは大切だ。しかし、これが行き過ぎると、常に「空気を読んで」「忖度して」行動することになる。息苦しく、果てには「悪事を見てみぬふり」がまかり通る事態に及ぶ。

では、どんな「和」がこれからの日本にふさわしいのか?昭和と令和、二つの「和」の違いを考えてみたい。

昭和の「和」には、同質文化のにおいが色濃い。粒のそろった兵隊を大量に生産することがプライオリティだった戦時中はもとより、戦後の復興と高度経済成長時代には、勤勉な働き手の均質さが重要視された。教育システムはとがった個性よりも標準的な優等生を生み出すことに重きを置いて作られた。

金太郎あめのような企業戦士は、効率重視の大量生産を支えるのに都合がよい。コンビニエンスストアのフランチャイズモデルのように、ひとつの成功パターンをそのまま横展開することで、新しい市場が国内でもどんどん切り開けた時代である。

しかし、停滞の平成30年を経て、右肩上がりの時代は決定的に過去のものとなった。国内人口は2008年にピークを打ち、令和30年には再び1億人を切る程度と予想される。この右肩下がりの時代、令和に、同質文化的な「和」はいかにもそぐわない。

階段をうまく下るのは、がむしゃらに上るよりも難しい。人口や経済が伸び悩む社会をかじ取りするには新しい知恵が必要だ。そして、そのような想像力は、金太郎あめ軍団から生まれるよりも、異質な考えを混ぜ合わせることで生まれる確率が高い。

例えばコンビニである。既に新規出店余地は限られ、既存店舗あたりの金額は伸び悩んでいる。フランチャイズオーナーは高齢化し、後継者探しが大きな課題。足元の人手不足は本部とオーナーの軋轢をさらに大きなものにしている。自動化を進めながらも顧客満足度を落とさないためには、これまでの「どこでも大体同じ」な店舗はこれから大きく変わらざるを得ないだろう。

例えば、エリアごとに、まったく異なる2種類の店舗を作ることが考えられる。数を絞った基幹フランチャイズでは、品ぞろえを充実して手厚い従業員の手間をかける。その代わり、その周りの衛星店舗は限りなく自動化し、厳選された定番商品のみを扱う大きな自動販売機のようなコンビニが出来るかもしれない。

もちろん、既存の金太郎あめのような本部―フランチャイズシステムを壊して、新しいモデルを作ることは容易ではない。しかし、これからコンビニ業界が進化し続けるためには、このような店舗とフランチャイズ関係の見直し、はたまたデジタル化する消費者行動への対応など、根本的なビジネスモデルの創造が求められる。この作業には、新しい発想を「忖度なく」ぶつけあうことが不可欠だ。過度の「和」は邪魔でしかない。

右肩下がりの時代には、個人の生き方も多様化する。晩婚化が進み、男性生涯未婚率が25%に達しようとする。私が昭和に過ごした幼少期を思い返すと、友達も親戚も、お父さんが働いてお母さんは専業主婦、二人の子供という核家族が実に多かった。もはや、このようなひとつの王道パターンが幅を利かす時代は終わり、「やー、いろいろあっていいよね」という時代に突入している。共稼ぎや熟年単身はもちろん、例えば、米国で見かける「お母さんが二人」や「お父さんが二人」の家族も当たり前になるだろう。職業観も大きく変わり、中高年の転職は珍しくない。

では、そんな令和の「和」を、どう解釈すればいいだろう?他人を思いやる、個の行動を起こす前に全体への影響を考える、といった日本的な良さはもちろん大切にしたい。どちらかというと、「和」よりも「礼」に近い精神だ。

しかし、全員が声を揃えて合唱するような昭和の「和」に囚われると、これからの下り坂をクリエイティブに生きていけない。不協和音をも含みながら、いろいろな音がまじりあう「和音」のように、多様性を許しながら響く「和」。そんな「和」が令和, beautiful harmonyの和ではないだろうか?

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