「当たり前」の再構築は、当たり前のことながら難しい
私の本業、実は記者ではない。2カ月前に「プランナー」になった。記事のアクセス数などのデータをもとに、日経電子版を多くの人に読んでもらえるよう施策を考えている。一昔前なら「ビジネスマンなら日経新聞を読んで当たり前」と言っても受け入れられたかもしれないが、もはやそうした押しつけマーケティングがまかり通る時代ではない。
オールドメディアの筆頭、新聞社は様々な「当たり前」でできている。朝刊・夕刊を宅配するビジネスモデルがあって、昼夜逆転の編集体制、記者の夜回り朝回り……。少しずつ形を変えながらとはいえ、こうした当たり前が140年も続いてきた。
「当たり前」に支配されるとその範疇のことしか考えられなくなる。厚生労働省の記者クラブに所属していた2カ月前までそうだった。取材して記事を書くまでが記者の仕事。読者に思いをはせることはあれど、「有料会員のエンゲージメントが高まりそうだな」などと考えたりはしない。
もちろん取材の公平性・中立性を守る意味で、記者全員がビジネスサイドのことを考える必要はない。ただ、記者だった私は「プランナー」という役職を言葉で与えられて、初めてマーケティングの世界を認識した。新聞を複眼的に見られるようになったし、「当たり前」の範囲も広がった。サラリーマンとしては少しバランスがよくなったのだと思う。
価値観をあえて言葉で表現すること
バランスよく考えなければいけないのは日々の食事も同じだ。スープ作家の有賀薫さんによるワークショップ「#家庭料理の新デザイン」では、自分の生活スタイルに合わせた最適な家庭料理を考える。第2回となる3月7日は食生活の言語化を試みた。
普段どんな食事パターンが多いか、グループで共有するワークに多く時間を割いた。食「生活」というように、その人の暮らしや仕事が大きく影響する、とてもプライベートな領域だ。
有賀さんは「あえて共有することに意味がある」という。自分が当たり前だと思っていることが他の人にとっては意外性があって、実は食生活を飛び出して自分の独自性につながっていた、ということもある。
夜はコンビニだったり会食だったりまちまちだなあ、何から言語化したものかなあ…と会場に向かうまで考えていたが、こんな便利なツールが用意されていた。
「問診票」。自分で書くのではなく、他の参加者に聞きとり調査をしてもらうシカケだ。特に食事に何を求めるか?という価値観の部分は、その人のことを深掘りして把握できる設問になっていた。
「安全性」に気をつけているのはがんの家系だから、「だんらん」を大切にしているのはパートナーの実家がそうだったから――。踏み込みにくいところに一歩踏み込んだ分析が、問診を受けて自然と出てきたのが印象的だった。
ちなみに私が最も重視するのは「安全性」。体調を崩さないよう、油分の少ない食事を心がけている。記者だった2カ月前、プレッシャーと不摂生が重なり、患っていた膵臓を悪化させてしまったからだ。身を粉にして働くのは記者として当たり前と思っていた。急性膵炎の激痛を経験した今、その「当たり前」に疑問を抱き始めている。
「当たり前」の再構築は、当たり前のことながら難しい。日ごろ意識することも言語化することもないものを変えるには、環境の変化や痛みといった外発的なものをうまく使ってバランスを取るのも一つの手かもしれない。でもショック療法的に食生活を変える解は、今のところ見つかっていない。
最終回(4月4日)に続きます。
第1回の雑観も書いています。