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世の中の「当たり前」を変えるのは、本当に「技術」なのか 〜「工夫ファースト」にシフトしよう

こんばんは。uni'que若宮です。


日経新聞朝刊「未来面」との連動企画で、こんな募集がされています。

今、目の前にある世の中の「当たり前」をどんな技術で、どのように変えたいですか。今を0として、いかにして1を生み出しますか。コロナを契機に考えてみてください。

コロナをきっかけとして「当たり前」を考えなおす。今日はそのことについて書いてみたいと思います。


「当たり前」を変えるのは果たして「技術」なのか?

冒頭からお題に異議を唱えるようでとてもいいづらいのですが…

念の為申し上げておくとお題に対してハスに構えるとか反論するとかをしたい意図は全くありません。でもどうしても違和感があるのであえて提起させてください。

今、目の前にある世の中の「当たり前」をどんな技術で、どのように変えたいですか

この問いに対して、僕はなお、こう問い直したいのです。

「当たり前」を変えることは、本当に「技術」に可能なのだろうか?


色々なところで書いているのですが、日本では「イノベーション」というと「技術革新」と訳されがちだけれども、「イノベーション」とは「技術」の革新ではなく、むしろ「文化革新」であるべきではないか、と僕は考えています。

たとえば、twitterやfacebookは確実に我々の生活を変えましたが、技術的な先進性がものすごくあったわけではありません。(もちろん今ではAIなどをごりごり使って洗練を重ねていますが)そもそもは「いいね!」や「140文字のコミュニケーション」という新しい価値と概念を社会に提案した、それこそが彼らのイノベーションなのです。

つまり技術の進歩だけではなく、「価値観自体の刷新」があってこそイノベーションであり、それはまさに「当たり前」を変えることだとおもうのです。


緊急事態でも変わらない「当たり前」

「当たり前が変わる」といえば、たしかにコロナ禍で色々なことが変わりました。目に見える分かりやすい変化は「リモートワーク」でしょう。

その中で一躍注目のサービスに躍り出たのがZoomです。Zoomのおかげでグループでのオンライン会議やコラボレーションはもちろん、飲み会までが可能となりました。

しかし、Zoomという「技術」の登場がひとびとの行動様式を変化させたわけではありません。Zoomは2013年にはローンチされていますし、その他にもリモート会議やクラウド共有などのテクノロジーはたくさん、そしてずっと、あったのです。これまで長いことリモートワークを推進し、企業に導入しようとしてきた人たちからは「何十年もかけても遅々として進まなかったことをコロナウイルスは数ヶ月でやってのけてしまった」というため息も聞かれます。

「外に出られない」という制約が強制的に「リモートワーク」を体験させ、「リモートでも意外と出来るじゃん」「リモートって便利じゃん」と「当たり前」を変えてしまったのです。

とはいえ、「当たり前」が完全に変わってしまったわけではありません。緊急事態宣言が解かれると多くの企業がまた「オフィスワーク」へと戻り、電車はふたたびすし詰めになっています。ことほど左様に人間は「当たり前」という「慣性」、あるいはもっと強い言葉でいえば「惰性」の重力に負けてしまいます。


「緊急事態宣言」の中、僕自身いろいろな「惰性」に苦労させられました。

1) 一ヶ月前に別件で提出しているにも関わらず「必要なので印鑑証明を役所でとってきてください」という公共機関
2) メールでこちらからは連絡できるが、「メールでは返事はできないルールになっている」と電話でしか連絡が取れない。かかってきても電話だと取れない時も多く、折り返しても話し中か他の対応中でつながらない → 折返しもらう → 取れない、の無限ループ
3) FAXで書類を送って下さい。問い合わせフォームやメールもありますがファイル添付は受け付けられません。

お分かりの通りこれらは技術的な問題ではありません。これらのとんでもない不便はすべて技術的には簡単に解決できるものですが、「難しいですね…」という回答が返ってきてしまうのです。「難しい」て…メールやチャットは小学生の子でも使いこなしていますよ…

僕は「緊急事態ですし、職員のみなさんにとってもその方がむしろ楽になると思うので、ご検討いただけませんか?」と交渉してみました。けれど何より悲しい気持ちになったのはその時の返答だったのです。

「そういう声を沢山いただいているんですが、決まりなので…」
「これまでは全てそうしていただいていて、前例がないので…」
「そうしたいのですが、私は末端の人間なので…」


「決まり」って、、、誰が決めるの、、、???

「前例」がないとできないなら、もう何も変えられなくない、、、???


「当たり前」のボトルネックは、「技術」ではない。

事例をみていただいてわかるように、いまの日本の「当たり前」を打破するにあたってのボトルネックは往々にして「技術」ではないのです。どう考えてもFAXが技術の限界ではないですし、emailの登場からでさえゆうに30年は経ち、すでにコミュニケーション技術のメインはチャットに移っています。それなのに上記のようなありさまで、「技術立国」「先進国」を自称する国とは思えません。

こういう事例を話すと、「これだから公共機関は」とか「お役所人は頭が固いんだよ」とか言われがちですが、ここで僕が言いたいのは職員の個人の対応への不満ではないのです。

彼らの返答で一番驚き、そして悲しくなったのは、

「そうしたいのですが、私は末端の人間なので…」

という言葉でした。「末端の人間」と従業員に言わせてしまう組織ってなんなのだ、、、


「工場」のパラダイムと「システム」

「決まり」や「前例」、これらは「不測の事態」を避けるために生まれた方法論です。

拙著でも「工場」パラダイムの終わりについて書いているのですが、「工場」のパラダイムでは「おなじ」が価値とされ、「ちがい」は不良品や事故のもととして排除されます。人々は同じ格好をして同じ時間に通勤し、「マニュアル」化によって仕事は出来る限り「属人化」するな、と言われてきました。こうして、工場のパラダイムにおいて人は限りなく規格化され「部品」のようにされたのです。

「末端なので…」という言葉には、自分が大きなシステムの歯車にすぎず、何も変えることはできない、という諦念が滲んでいます。もし自分の判断で動いてしまうと「誰がそんなこと許可したんだ?」と上司に詰められるのでしょう。


工場のパラダイムでは「システム(組織やルール)」が個に先立って存在するようという洗脳がなされます。そこでは個の価値は「管理」のために去勢されているのです。

「個の時代」「個のエンパワーメント」と言われて久しいにも関わらず、「工場」のパラダイムを抜けられていない組織や企業がまだまだ多い。これではいくら技術が進もうと「当たり前」は変わりません。


「システム」より「工夫」を評価する社会へ

工場(ファクトリー)と組織(システム)。なんか話が『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』みたいになってきましたが、ではこれを脱するにはどうしたらよいのでしょうか?

僕は「システムファースト」から、「工夫」を大事にして評価する、という「工夫ファースト」への転換が必要だと思っています。

全体が統一されたシステムを志向するのではなく、個々がそれぞれに工夫することを評価する。これは価値観の転換です。なんとなれば、「個々の工夫」は「工場」のパラダイムでは「ちがい」として排除されてきたものだからです。

そしてまたこれは、マネジメントの「コペルニクス的転回」でもあります。組織のために個があるのではなく個は組織に先立つ。工場では「現場」は言われた通りに動く「末端」であり、「手を動かさないマネージャー」の方が「上司」として偉かったわけですが、それが逆転し、現場の「工夫」こそが価値の源となり、マネージャーは(野球部やタレントのマネージャーのように)そのサポート役になっていくのです。


「工夫ファースト」から生まれるのは、たとえばこんな事例です。

手続きの革命的な簡略化を成し遂げたこの方は、エンジニアでもありませんし、技術的にものすごいことをやっているわけではありません。kintoneと郵送を上手く組み合わせ、うまく「工夫」しているだけです。それはまるで「DIY」や「サバイバル術」のようです。少し見栄えは劣るけれども、まずあるもので工夫してやってみる。VUCAと呼ばれる不確実の時代にはこれこそが必要なスキルでしょう。

しかし、こういった「工夫」が評価されるどころか容易に潰されてしまうのが今の日本だったりします。そして「工夫」を殺すのが「決まり」や「前例」なのです。


「工夫」は、割と失敗する。

これは必ずしも国や企業だけの責任ではありません。

「工夫」が評価されず、「決まり」や「前例」が優先されてしまう理由は、「失敗」への不寛容さにあります。「工夫」は試行錯誤の連続であり、必ずしもうまく行くわけではありません。むしろ割と失敗します。そして悲しいかな、日本では「工夫」がちょっと「失敗」すると「それみたことか」とほうぼうから責められがちなのです。

そのように責められると、公的機関や企業ではどうしても「工夫」を許容できなくなり、「決まり」と「前例」の中に逃げ込んでしまいます。また、失敗の責めを負わないためにも「個々の工夫」を封印し、集団的な意思決定に委ねるのです。


工夫を評価する社会は、失敗に寛容な社会です。


「緊急事態宣言」でも「当たり前」を変えることができなかったように、「技術」では「当たり前」は変えられません。むしろ重要なのは価値観の転換ではないでしょうか?


といっても大きな革命が必要なわけではありません。「決まりなので、」とか「前例がないから、」とか「それは常識に反するし、」という言葉がつい口をついてしまったり、そういう言葉に出会ったら下の句に「工夫してみようか!」と続けてみる。そんな小さな積み重ねこそが世の中の「当たり前」を変えていくのではないでしょうか。

「技術」や「システム」が変わる前にできることからDIYでやってみる。そしてそれで変化が起きてから「技術」として開発する。「当たり前」は「技術」で変わるのではなく、「当たり前」が変わった先に技術が生まれるのかもしれません。


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