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謙遜はもはや美徳ではないのではないか、という話

お疲れさまです。メタバースクリエイターズ若宮です。


今日は、「謙遜」について。

日本には「謙遜」「謙譲」という美徳があり、「謙譲語」という(おそらく外国語話者からするとなかなか理解が難しい)独特な文法もあります。

しかし最近僕は、「謙遜はもはや美徳ではないのではないか?」と感じることが多くなってきました。


主催者の謙遜コメントで残念な気持ちに

最近改めてそう感じたエピソードがあります。

あるイベントに参加したときのこと。イベントでは主催者が挨拶をすることが多いと思いますが、挨拶で主催者の方が「今日はなんかグダグダな会ですみません」とおっしゃったのですよね。それを聞いてなんか「残念」な気持ちになった。

その会自体が特別グダグダな感じだったりなにか進行でミスがあったというわけでもありません。おそらく主催者の方は、謙遜かカジュアルな雰囲気を出す意図でそういったのでしょう。しかし、主催者がその会を「グダグダ」と呼んでしまうと、参加者としてその場の価値が低められた気がして残念に感じたんですよね。


そして同じようなことが一週間ぐらい後の別のイベントでもありました。で、思ったんですよね。これは悪い謙遜が蔓延している…と。


僕自身もイベントを主催することがあるので、似たようなことを言ってしまってるかも、とはっとしましたし、つい謙遜したくなる気持ちは理解できます。しかし、会自体をへりくだるような発言は、せっかく参加してくれた参加者にとっての場の価値を下げることになってしまうんですよね。

もし本当に進行に自信がないとしても、「私たちもまだ不慣れなので進行に問題があったらすみません。でも精一杯頑張ります!」という感じの方がよいのではないでしょうか。「こんなにグダグダな会に参加していただいて…」というのはやっぱりちょっと残念な気がする。

謙遜は、日本的なマナーや常識として身につけられるものですし、社会的要請として求められることもあるでしょう。しかしだとしても、謙遜が無自覚に体験や価値を下げるかもしれないというデメリットについて改めて考えてみるべきではないでしょうか。


「期待値調整」が相手の負担に

「謙遜」の一つの機能として、「期待値調整」があると思います。

例えばプレゼントを渡す際に「つまらないものですが」と言うやつですね。もちろん、実際に「つまらないもの」だとはあげる側も思ってもいないのですが(本当にそう思うならやめとけって話です)最初に低い感じで言っておいて、実際にはいいものをあげることで落差をつくるわけですね。

もちろん、期待値を上げすぎるのは避けたほうがいいでしょう。「めちゃくちゃ素晴らしいものを用意しました」と言われて大いに期待して開けたら、え、いや言うほどでも…、となってしまったり、誇大広告のように実態にそぐわない表現はやっぱりよくないわけですが、いたずらに低くいうのもまた実態にそぐわないわけです。


まあ、「つまらないものですが」くらいは形式上なので良いかもしれませんが、「あなたのためにグダグダなものを選んできました」と言われたらどうでしょうか。それは贈る相手に敬意を示すどころか軽んじているのではないでしょうか。


これに似たケースで、「自分の属性いじり」もけっこうやりがちです。僕も若い方と話すときについ「もうおじさんなんで」と言ってしまったりするので注意しています。こういう事を言うのは「自覚してますよ」という防衛線だったり、自虐的なジョーク半分だったりしますが、言われた側は「いやー全然そんなことないですって!」とか無理して愛想笑いをつくって否定しないといけなかったりして、これって結局、こちらの防衛のために相手に負担をかけているだけなんですよね。。。


あと、誰かに褒められたときについ「いえいえ、全然そんなことないです」という反応をしてしまうこともあります。でもあんまりにも拒絶されると、褒めた側が申し訳ない気持ちになってしまいます。本当に素敵だとおもったから伝えてくれてるのに「全然ちがいます!!」って拒絶しつづけるのは相手の価値評価を否定することにもなりかねません。

食事を食べて「すごいおいしかったです!」ってシェフに伝えたら「いや全然ですよ、これはまずいですよ。」って言われたら「味がわからない客」と馬鹿にされているみたいですよね。


日本では褒められたときにいったん否定するのが美徳、みたいな感じがありますが、海外では「Thank you」で終わる話で、否定や拒絶せず「ありがとうございます」と言うほうがスマートな気がします。

僕も「菅田将暉みたいですね」とか言われたりするとつい、「いえ、全然です!」と否定の言葉が出がちです。自分ではそんなに似ていないとおもっていても、褒めてもらえた時には「光栄です!頑張ります!」と答えるのが良いのでは、と最近は思ってます。身の丈に合わないと思ったら、低くいうよりもその言葉に相応しい自分になれるように頑張ったほうが有意義ではないでしょうか。


自己評価を低くすることは他人に対する敬意を示す手段とも言えますが、必要以上に自己評価を下げるのは逆効果で、信用を損ねることにもなりかねません。また、自分自身を否定することによって、自分自身の自尊心や自信を傷つけることにもなります。

僕らはしばしば、自分を低く見せて他人に気に入られようとしたりします。しかし他人との良好な関係を築くためには、むしろ適切な自己評価と自尊心を持つことが重要だと僕は思います。


「愚息」「愚妻」「呼び捨て」で身内への感謝がなくなる

こうしたことは「身内」との関係においても注意が必要だと思います。

例えば、パートナーから「好き」「素敵」と言われた時にそれに対して、「いやいや全然そんなことなくて、むしろクズ男です」と反論したとします。そういう自己否定はパートナーがあなたを尊重し愛している気持ちごと低めてしまうことにもなりかねません。「ああ、わたしはクズと付き合っているんだな、クズがお似合いの人間なんだ…」とパートナーに思わせてしまうとしたら、それって最悪ではないでしょうか。


さらにいうと、僕が特に違和感を感じているのは、周囲の人々、特に身内や同僚を下げるような言葉遣いです。日本人はなぜか「身内」と思ってしまった瞬間に、その人をちゃんと評価しなくなる、という傾向がある気がします。(日本人だけではなく他国でもそういうのあるかもしれませんが)


そういう残念さを感じた、こんな経験があります。

以前、ある合宿型のワークショップをどうしてもとお願いされて、そこまで必要としてもらえるならとお引き受けしました。企画からかなり何度も練り直して、期間中も夜中までメッセージで参加者にフィードバックもし、かなりの熱量で伴走したのですよね。

2DAYSのワークショップのあとで最終日に発表会があり、最終発表会にゲストの審査員の方が何人かいらしたのですね。もちろんゲストは素晴らしい方たちばかりだったのですが、この最終発表会に当たって依頼主はゲストにだけ言及し、すごいゲストが来てくれます!みたいな話ばっかりするのです。それをみて、「少しでもいいワークショップにしようとあれだけ稼働も度外視で本気で伴走してきたのに一言も無しかあ…」ととても残念な気持ちになりました。

こうした経験をしたので、それ以降、僕は「裏方」や「身内」の方に賛辞を送ることをかなり意識的にするようになりました。そして意識すると改めて気づくのですが、こういうことって本当にしょっちゅう、そこここで起こっているのですよね。

アート界や演劇界などでも製作や裏方のスタッフに対するリスペクトが無いなあ、と感じることがあります。自分も表現者なので表現同士で関心やリスペクトがあるのはわかりますが、打ち上げとかの時にアーティストはアーティストとばかり話していたり、ゲスト演者だけに謝辞をのべたりとか、これは本当にあるあるです。制作スタッフは「身内」なので身内を褒めるのは自画自賛になる感じもあるのかもしれませんが、裏方にリスペクトがない人をみると、いやいやあなたたちの表現は裏方無しではそもそも存在すらできないでしょうよ…とすごく残念な気持ちになるんですよね…


「身内」へのリスペクト不足は自分の家族や仕事仲間に対してもよく見られます。そしてそれには「謙譲語」のせいもあるんじゃないか、と感じるので、最近僕は身内に対する謙譲表現は使わないようにしています。

家族に対する「愚息」とか「愚妻」とか、自社のメンバーに対しては敬称をつけずに呼び捨てにするとか、そういうことにすごい違和感を感じるのですよね。。。

いや、言葉づかいやマナーのためだから、と思われるかもしれませんが、やっぱりこういう言葉で呼んでいると意識としても身内を低めるようになってしまうのではと思うのです。

たとえば他社との打ち合わせで、自社のメンバーが素晴らしい仕事をしたとしたら、僕はちゃんとそれを褒め称えていいと思うんです。ちゃんと褒める方が「そんなにいい仕事をしてくれたんですね!」と相手先にとってもプロジェクトの価値が上がってうれしいんじゃないかと個人的には思います。

でも「弊社の〇〇が」とへりくだって呼び捨てにしていると、社外に対して社内の人間を褒めるのは「はしたない」みたいな感覚になってしまうのではないでしょうか。少なくとも僕は、メンバー同士お互い低めあっているチームよりも、お互いを褒め合い高め合っているチームと仕事をしたほうが楽しいしアガるとおもうのですがアゲ〜


そういう意味で、「謙譲」は少し時代遅れになっているのではないでしょうか。家族や自分の子供であっても、自社のメンバーであっても自分の所有物ではありません。ひとりの人間として、ひとりひとりを本当に尊重するなら、「マナーをわかっている人」と思われたいエゴで身内を勝手に「愚妻」なんて言わないほうがいいんじゃないかなと思いますがいかがでしょうか。

このお話を先日Voicyでしたところ、リスナーの方からこんなコメントをいただきました。

10数年前、夫が結婚の許しを得るため私の実家を訪れた際、夫に向かって母が「不束ではない娘です。おすすめいたします!」とキッパリ言い放ったことを思い出しました。
その時は、おもろいこと言うなぁと思っていましたが、心から娘のことをリスペクトしてくれていたんだなと今気がつきました。忘れたくないギフトですね。

そうそう!これこれ!!こういうの本当に素敵な関係だなあ、と思います。


そもそも下げなくてもリスペクトは示せるし、下げてももはや相手が上がらない時代

念のため言っておきますが、僕は日本語の美しさや奥深さを否定するつもりはありません。「おくゆかしさ」などの伝統的な価値観が必ずしも悪いわけではないのですが、でも思考停止でそのまま続けるのではなく、時代と合わなくなってきたところはちょっとずつ見直していった方がよいと思うのです。

親や先輩などへの敬意はだいじです。だからといっても無条件に年齢が上なら尊敬すべきとか肩書で上下が決まるとか、思考停止になってしまうと「尊敬」の本質を見失ってしまうと思います。

本質的に大事なのはリスペクトする気持ちであって、外面的なことはあくまでその手段ですし、自分を下げなくとも相手に敬意を払うことはできるはずです。

先に述べたイベントの話やシェフのたとえでもそうですが、本当は自分も価値がある人間だからこそ相手の素晴らしさを認めることができるはずではないでしょうか。自分を下げることで相対的に相手を優位にするより、自分の価値をしっかり持った上で「あなたは素晴らしい」と言えた方が、リスペクトの度合いが高いと僕は思います。

また、これからの時代は人の評価やリスペクトの軸はどんどん一つの軸だけではなくなっていくと思っています。

かつては年収や偏差値で人の価値を測ったり、時価総額や社員数で企業を格付けしたり、みんなが共通の軸で測られていました。軸が一つであった時は、その軸に沿って自分が下がれば相手が上ということが成り立ちました。

しかしこれからの時代は、そもそもの価値軸が多様になっていくべきだと僕は思います。一つの基準だけでなく、様々な価値観や視点を尊重する時代。それはスカラー量ではなくベクトルでリスペクトする時代です。それぞれ軸が異なる人たち同士が、自分の価値を尊重しつつ、互いの価値を尊重することが大切だと思うのです。

ダイバーシティとは価値軸の多様性を増やすことだと僕は思います。そういう社会をつくっていくためにも、もはや謙遜は美徳ではないのではないか、と思うのです。




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