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持続可能性を確かなものにするには、「知足」概念と人間理解の普及が必要、かもしれない

持続可能性は、言うまでもなく大事なことです。

が、筆者はこの5文字を聞くと、一筋縄では行かない感じがしたり、なんとなく建前っぽい感じがしたり、正しさを正面から主張されているような気がしたりして、なんとなく座りが悪い感覚を感じたりします。

このような方は、実は一定数おられるのではないか、という思いから、なぜこのように感じるのか、ということを考えてみたいと思います。

持続可能性を確かなものにするためには、生産よりも消費を少なくしなければなりません。化石燃料のように有限な資源への依存をなくしたり、消費者たる人間の数を一定の範囲内にコントロールすることも必要になるかもしれません。

これで行くと先進国とそうでない国の間には不平等が生じます。つまりこれから経済発展を享受しようとしていた途上国は、持続可能性という錦の御旗の下では、もはやかつての先進国のような開発の形は望めない、ということです。

次に、たいていの国は資本主義で運営されており、ものの軽重を測る単位として貨幣が採用されています。貨幣は何にでも交換できる万能ツールなので、たくさん持っていれば出来ることや所用できるもののスケールが大きくなります。

また、人は成長実感を持つことを好みます。さらに資本主義の下での会社組織は成長することは、その設計思想に組み込まれています。この「成長」の物差しとして、大抵は「所有している、または獲得した貨幣の量の多寡」が使われます。人の成長はもちろん持っているお金だけが基準ではありませんが、目的や結果としてそれらは往々に結びついているのではないか、と思います。

企業がより多くのお金を得るために活動を強化すれば、生産するモノやサービスの量も増えることになりますので、生産量が上がりますし、それが購入されれば消費の総量も増え、持続可能性と逆行します。

ここまでで、あらあらではありますが、以下のような整理ができたのではないか、と思います。

(1)持続可能性を求めると、生産をコントロールし、消費を制限することになる

(2)それによる先進国・発展途上国間の不公平感を生む

(3)資本主義下では、お金はあればあるほど良いものとされる

(4)企業は経済成長を内包しており、それは持続可能性と対立しがち

(5)人の成長欲求も、持続可能性と対立しがち

筆者は、持続可能性を確かなものにするためには、(2)の不公平感や(4)(5)の対立を解消しなければならない、と思います。

どうしたらそれが実現するでしょうか?

まず。(3)に記したように、資本主義ではお金はあればあるほど良いとされますが、それは本当に(「最大多数の最大幸福」という資本主義の目的でもある)幸せの最大化につながるでしょうか?

ノーベル賞を受賞したダニエル・カーネマンの研究によると、収入と幸福度が比例するのは800万円までで、それ以上ではほとんど変わらないそうです。これは考えてみれば納得の行く話で、ある程度までは色々な商品やサービスを買えば買うほど生活は便利で快適になるでしょうが、一線を越えればそれは必ずしも必要ではないものの世界となり、改善実感は大して上がりません。一方で嗜好品や贅沢品は際限なく高いものがあるので、収入がいくら上がっても「まだこれは買えない」「もっと収入が上がったらこれを買おう」とエスカレートし、ゴールはありません。こうなると欲求と収入がいたちごっこをしている感じであり、「もっと稼がなくちゃ」というある種の強迫観念が高額所得者の心を苛み、幸福度を伸び悩ませている、ともいえそうです。

そしてお金はあればあるほど良い、という直感とこの強迫観念は整合的なので、人は疑うことなくより高い収入を目指してしまいがちになります。かくして幸福度はお金があっても伸び悩みがちになる、という次第。

このような状況は「知足」という考え方を導入すると、解決するのではないかと思います。つまり、今自分の置かれた状態は、自分にとって必要十分か、と自問自答し、もしそうであれば、それで満足するようにしよう、というマインドセットを持つのです。

企業がこの考え方を規範に活動すると、右肩上がりの成長を前提としないことになります。投資家がいる状況でそれは難しいのではないか、と直感されますが、一歩思考実験を進めて経営者・投資家含め、全ての人がこのようなマインドセットになった世の中を想定すると、足るを知る企業への共感が投資家の動機となり、持続可能性に対してお金が集まる可能性があると思います。

人間の幸福に着目して、知足という概念を社会に導入すると、資本主義と持続可能性の折り合いがつきそうだ、ということが見えてきました。では、(2)の不公平感はどのように解決すれば良いでしょうか?

筆者はよく冗談まじりに、「やっと年収1000万に届いて誇らしく思っていたら、同僚が1100万もらっていることを知り、砂を噛むような思いになった」という話をします。

なぜ人がこのように思うかというと、

・世の中一般の水準を参照点にして、自分の年収(1000万)を評価し、誇らしく思う

・同僚の年収を知った時から、その額(1100万)に参照点が変わり、それを基準に自分の年収を評価し、惨めに思う

という作用が起きるからです。

ここで着目したいのは、「世の中水準」から「同僚の収入」へ、参照点を変える必要も理由も全然ないのに、心が恣意的にそのように振る舞っている、ということです。

人間にはこのように、何かを評価するとき、恣意的に参照点を決め、損得を基準に自分の状況を評価する、という癖があり、これは得てして幸福を減じます。

発展途上国の感じる不公平感は正当なものだと思いますが、それを主張し始めると持続可能性に向けての舵きりがしにくくなります。グローバルな規模でこのような人間の性質への理解が進めば、まだ理知的な議論をすることが可能なのではないかと思いますし、それをしないで問題を解決しようとすると、先進国との間でのおかしな取引が横行して、持続可能性の向上が形式的になる恐れがあると思います。

以上、COMEMOのお題「#持続可能な社会に必要なサービスとは」に乗っかる形で色々と考えてみました。

私の結論は、持続可能性を確かにするのは、(1)知足という考え方を普及させること(2)人間理解を進めることの2点だ、ということであり、これらの推進に必要なサービスというと、月並みですが、教育や広報を大規模に整備していく、ということになるのではないか、と思います。

最後に。

上に資本主義と持続可能性は、そのままでは「逆行する」と記したので、この2つは相容れない概念のように見えたかもしれません。しかし先述したように資本主義は「最大多数の最大幸福」を実現するための仕組みであり、その理念は持続可能性でも同じであるように思われます。では何が2社を違えているかというと、持続可能性の方は、将来的な幸福も視野に入れているのに対し、資本主義はそうではないこと、すなわち資本主義と比べて持続可能性は長い時間軸の概念を持っている、ということでしょう。

つまり、資本主義と持続可能性は幸福の希求という共通したルーツを持っており、異なるのは時間軸であるという次第。こう考えると、知足のような間を取り持つ概念の導入により、両者が近接する、ということも納得性が高いように思われます。

読者の皆さんは、どうお考えですか?

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