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飲食店は、ルーティンとしての食事を取る場所であり、仲間との関係を深める場所であり、メニューや空間から店主の信念に触れる場所である


筆者は昔勤めたオフィスがあった赤羽にある、高はしというお店を、揺るがぬ最高のラーメン屋さんと勝手に認定しています。

高はしは定員7人の小さなお店で、店主の高橋さんがワンオペで切り盛りしており、いつでも長い行列ができています。ここの一杯の素晴らしさは、語り出すと止まらないので、上記ブログをご参照いただきたいのですが、この記事では私の胸に残る高橋さんとのやりとりを2つ紹介したいと思います。

1つ目は、高はしのチャーシューについて。

ここでラーメンを頼むとチャーシューが一枚乗ってきます。このチャーシューは子供の手よりは大きい相当な大振りで、味が抜けた煮豚ではなく、堂々たるローストポークです。

下手なイタリアンなどにいったら、これだけで2000円くらいしそうな一枚が、600円のラーメンで味わえる幸せ。

ちなみにチャーシューメンを頼むとこのチャーシューが5枚乗ってきます。私は相当な大食漢ですが、これを食べ切るのにはかなりのパワーが要ります。

高橋さんは毎朝6時に店に入り、15kgのローストポークを仕込まれるそうで、それは相当な作業だと感じられます。

閉店間際に店を訪れ、たまたま店内が高橋さんと筆者だけになったタイミングに、彼に聞いてみました。

筆者:「どうしてそこまでチャーシューに力を入れるのですか?」

高橋さん:「お客さんにいい驚きを感じて欲しいからです!」

飲食店のみならず、全ての仕事にたずさわる人が持つべきマインドセットを、これほど明快に、爽やかに語ってくれ、かつ実践している人は、そうはいないのではないかと思います。

それまでは、高はしのラーメン(肉だけでなく、麺もスープも絶品です)に惚れ込んでいた筆者。しかしこの瞬間から高橋さんの信念にをも惚れ直しました。

もう1つは、赤羽にある会社から転職し、数年ぶりに店を訪れた時のことです。

懐かしい暖簾をくぐり、忘れ得ぬ芳香を胸いっぱいに吸い込みながら席についた私に、高橋さんは語りかけました。

「小でいいですか?」

「小」とは、私が高はしで必ず注文する「乱切りチャーシュー麺 肉小」というメニューの略称です。頻繁に通っていた頃ならいざ知らず、数年ぶりに予告もなく顔を出した筆者の、顔も好みも覚えてくれていた驚き、喜び。

ラーメン屋さんという、ともすると日常的なイメージがつきまとう場所で、あんなに胸が熱くなったことは、後にも先にもそれだけです。

今回のこのCOMEMOのお題を読み、真っ先に想起したのは、この高はしのことです。こうして考えると私は、高はしに限らない、飲食店一般に対してに3つのことを求めていることがわかります。

1つ目は、朝昼晩の「ルーティンとしての食事が取れる場所」です。いうまでもなくこれは食べ物を提供する飲食店が果たすことのできる、最も基本的な価値です。

2つ目は、友人・同僚などと訪れ、その「関係を深めてくれる場所」です。ラーメン好きな同僚とかの地で舌鼓をうち、オフィスに帰りがてら語る感想戦のそれは饒舌なこと。

3つ目は、上で記したエピソードのように、店主や店員とやりとりし、その「信念や感情に触れる場所」です。飲食店であるという特性上、それは提供されるメニューをチャネルとすることが多いですが、お店の性質によっては、空間やインテリアを通じることもありますし、もっと言えば値付けや店舗オペレーションからもメッセージを感じ取ることができます。

これらは、コロナ前後で変わるようなことではない、人と飲食店の一般的な関係であるように思われます。筆者はこの3つの価値を、これまでもこれからも飲食店に求め続けます。読者の皆さんはいかがですか?

最後にお題の説明に記されていたいくつかの具体的な問いに対して。

・「検温やプラスチックの間仕切り、黙食などは、コロナ後も続くか」については、筆者はワクチンが一巡し状況が収まったら、消えていくと思います。消費者側に「それがないともはや気持ち悪い」というようなセンチメントが発生したら、習慣化される可能性もありますが、特に間仕切り(同行者との円滑なコミュニケーションを阻害するし、邪魔)や黙食(上記飲食店の価値のうち(1)(2)を阻害する)、は失うものが大きいので、まず残らないと思います。

・「忘年会・歓送迎会など大人数の会食スタイルは、今後無くなっていくか」については、無くならないと考えます。この問いは「コロナによって抑えられた大人数の会食を行わない、という制約が自然な状態として定着するか」と換言でき、大規模な会食が(色々大儀なことがありながらも)集うことへのモチベーションと必然性があって行われていたことを考えると、そうは思えません。

人間は社会的な動物であり、つながりの中で生きており、そして飲食をともにできる場所というのは、普遍的につながりを創造できる良い舞台である、というのが筆者の考えです。

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