審判、評価は「必要悪」 人とAIの望ましい役割分担とは?

 サッカーの誤審問題に続き、大相撲でも審判の判定に疑問の声が寄せられている。サッカーではビデオ判定の制度そのものが採用されておらず、大相撲ではせっかくビデオ判定の制度を取り入れながら、審判長がビデオより人の目を重視すると公言したのには驚いた。

 誤審やきわどい判定が物議を醸すたびに、ビデオ判定の拡大やAI化が提案される。一方には、「人間が判定するからおもしろい」という意見があることも事実だ。

 しかし誤審も含めたきわどい判定に人間模様を見出したり、ドラマを楽しんだりするのは邪道ではないか。それによってどれだけの選手がやる気を失い、ファンが鼻白んでいるかを想像してほしい。選手はプレーに全力を尽くして勝負したいのだし、ファンはそれを楽しみにしている。審判の役割は、それを陰でサポートすることであり、自分自身が存在感を示してはいけないのである。

 したがって、かりにAIで正確な判定ができるようになれば、そのほうが望ましいに決まっている。実際、陸上競技や水泳などはデジタルで判定されているが、それによって選手の意欲がそがれることはないし、周囲の納得感も高い。0.01秒でも先にゴールしたほうが勝ちである。かりに野球のストライク、ボールの判定がセンサーで行われるようになれば、ミリ単位でコーナーを突く、針の穴を通すようなコントロールをもつ投手も現れるだろう。大相撲でも、砂粒一つの差で勝負を制する神業師が登場するかもしれない(いわゆる「死に体」の判定など別の課題は残るが)。

 そして、人が判定することの限界という意味では、会社などの人事評価も同じだ。ある調査によると、人事評価に不満や不公平感を抱く人は6割ほどいる。それだけではない。上司や人事部の目を意識することで萎縮したり、がんばっているポーズを示したりすることの弊害は大きい。それだけ仕事に集中することが妨げられるし、ムダな言動も減らないからだ。なかには評価されるために悪いとわかっていながら不正を働く輩もいる。

 AIが本格導入されるようになり、人とAIの役割分担も真剣に議論されるようになった。少なくとも当分の間はAIより人間の能力を優先すべき分野があることはたしかだ。独創性、勘やひらめき、感性などはまだAIが人間にかなわない。しかし勝負の判定や人事評価などは、現状で人間に頼らざるをえないとしても、それはあくまでも「必要悪」だ。それが判定される選手、評価される人の、上述したような能力を発揮する機会さえ奪ってしまいかねないからである。

 審判や評価者の自己主張が、文句を言えない人たちに犠牲を強いていないか、深く考えてほしい。

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「個人」の視点から組織、社会などについて感じたことを記しています。

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ohtahajime

同志社大学教授。専門は組織論。個人を重視する組織・社会づくりが研究テーマ。 新刊『「承認欲求」の呪縛』(新潮新書、2019/2)のほか、『「ネコ型」人間の時代』(平凡社新書)、『なぜ日本企業は勝てなくなったのか』(新潮選書)、『個人尊重の組織論』(中公新書)など著書は30冊余。

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