見出し画像

アートの役割とは?

「アートの役割とは何か?課題提起でしょうか。というのも、アートの役割とは課題提起だとご意見を頂いたからです。では、アートにおける「課題提起」とは一体何でしょうか?」

このような問いをFBやtwitterで行いしました。

すると、多種多様なご意見をいただきました。今回は一部を紹介させていただきます。

Akihira Ishiharaさん
「前に記載したけど生々しくて現代人の言論では述べられない真実や隠された事実や当事者や既得権益者や何らかの宗教的または差別や国家機密により弾圧または暗殺されてしまう人達の遺言や暗号アートと言う媒体【演劇や音楽や絵画壁画など】によって現代人に課題提起される

中小企業診断士 Akihiro Morimotoさん
課題提起なんだけど、少しニュアンスが違うかな?という印象です
娯楽としてのアートは、浮世絵を始めとした「社会風刺」というか、私はこんな社会が好きという「訴え」という感じかな?という印象です

一方で、娯楽では無いアート(価値の保存と言うか、伝統・文化と言うか、自己実現と言うか...)は、場面の切り取り(写真とか動画の様な感じ)とか、分かりにくい物を分かりやすくした物(言葉では表現出来ない物を、形やイメージで表現した物。象形文字的な感じ)という印象です」

Jamie R.Pisenoさん
「I think that the challenge to art is...depends upon how prolific an artist choses be in relation to the level of depth of the pieces' meaning.」

Osamu Yamamotoさん
「アートの役割は、課題提起だと言う意見は、難しいですね。課題の中身なのか、課題そのものを提起することなのか。私は、もう少し広く考えてます。

アートには、色々な役割があると思います。

アートの心の深部に到達する力を、色々な局面に機能させることができると、思います。

Kazuo Wakamiyaさん
「僕も『課題提起』というとちょっとちがうとおもっています。

『問い』とか『課題提起』というとそれによって起こす変化のような社会的意義のようなものを暗に含んでしまう気がするのですが、アートはそうではなくて「?」そのものの方が感覚としては近いかもしれません。

解くことを要請もしない。しかしその疑問符はウイルスのようになにかを『触発』する。強いて言えばその触発が社会に副次的に変化を起こす。」

太田始さん
「アートにおける課題提起とは、鑑賞する側にストーリーを描かせることだと考えます。」

Kyoichi Murakamiさん
「社会問題の可視化表現だと思う」

Giacobbe Griecoさん
「Art must communicate a strong vision of the historical, economic and social context. The person who makes art must first carefully analyze the cultural context and then launch a challenge in the art.

あなたは芸術的知識のマスターでなければなりません、あなたはあなたの競争相手を知っていなければなりません、あなたはあなたの顧客の文化的文脈を知っていなければなりません。」

Kenji Kojimaさん
「現在のアートという意味では、地球文明が向かっているベクトルを示すこと 🌎🌍🌏」


原純一さん
「『芸術とは、別の手段による戦争の継続である』(インゴ・ギュンター)

自分に必然性のあるテーマで「語り直し」(反復し)、何らかの象徴秩序を突き詰めて解除すること、だと思います。

明日が命日の寺山修司のように。

「われわれは語らないかぎり、何も見ることができない。正確にいえば、見るとは語りなおすこと、すなわち絵を再度、描きなおすことである。いうまでもなく、語れないことは、抑圧され、永遠に忘れ去られ視界から隠されてしまう。絵はいつでも夢に似ている。それは語られること、すなわち作りなおされることの中にだけ存在する。絵は誰の視線にも開かれているようだが、誰もが同じ絵を見ているわけでも見えるわけでもない。その絵がそのように在ると思えるのは、存在が確かめられるのは、ただ語りなおすという行為によってだけであり、つまり語りうる者、絵を描きうる者だけが絵を見るのである。」
岡崎乾二郎『マニエリスム論序説 信仰のアレゴリー』1992年1月『批評空間』第1期4号所収

-----以下、私がAmazonで『ラカンで読む寺山修司の世界』に書いたレビューです。-----

三島由紀夫が『金閣寺』で、おそらくイマニュエル・カントの『判断力批判』を参照しながら、

金閣寺が空襲で燃えてなくなりそうな時、圧倒的に「悲劇的な美しさが増した」と書いたように、

永遠に確固として存在する構成的原理としての「美」ではなく、統整的原理として、歴史の中、明滅する「崇高」をどのように取り出すことができるかをラカンに依拠して描き出した本。

寺山の生きた20世紀中盤から21世紀にかけての芸術の中で、
「美しい形象」とは、あるいは「崇高な形象」とは、
どのように創り出すことが可能か、

どうして寺山の演劇が、

「思想的な課題を劇の全体で背負っていたにもかかわらず、寺山修司の舞台はつねに美しかった。この世のものとも思えないほどに美しかったといってよい。劇は一瞬静止して絵画になる。そのような一瞬がちりばめられていた。再びその舞台に接することができないことを思えば胸が痛むが、しかしその最良の部分を十二分に味わうことができたことを思えば、おそらく私は幸運だったのだといわなければならないだろう。」(三浦雅士)

というようなものだったかを丹念に解析・探究した本。

ちゃんと読み込めば、すべての芸術に携わる人へのヒントが溢れていると思います。

寺山を手がかりに、ラカン自身により、ラカンの「リミット」を超えていくことができることを示した、おそらく後期ラカン読解の重要な参照文献でもある(本書のオリジナルは精神分析学会(病跡学会?)で博士学位論文として、ジャッジも通過しています)と思われます。

---
 ここで想起したいのは、ラカンが次のように言っていることである。
「現実的なものは、形式化の行き詰まりによってのみ記入されるでしょう。この点において私は数学的形式化から出発して現実的なもののモデルを描くことができると思ったのです。つまり、数学的形式化は、われわれに与えられた中でシニフィアン性のものを産出する最も高度な努力だからです。」

 ラカンの形式化はそれ自体では存在しない現実的なものを描き出す手段であり、ランガージュの効果によって、現実的なものを産み出すための地図のようなものだというわけである。ラカンはその生涯において、こうした地図をたくさん残したが、『セミネール』XXで示した地図は、ラカンの欲望のグラフでは表されていなかったものが示されていたことに注意を要する。

 寺山の演劇は、戯曲によってファルス的享楽が縁取られ、そのうえで、そこからの出口として、ファルスを解除することによって産み出されるスペクタクルが現出していた。その意味で、まさしくこの『セミネール』XXが示した地図によって理解することができるものだといえよう。

 1978年に初演され、商業演劇として再演され、最終公演にもなった『レミング』は、戯曲構造において、我々の生をからめとる国家、家族、資本主義などのイデオロギー装置を浮き彫りにしつつ、そこからの出口を創造せよというメッセージとともに、シンギュラーなスペクタクルを産出していた。無限性を言語活動によってファルス的享楽として追いつめ、その操作の極限において、それを手放し、他者の享楽へ媒介なく開かれるといったありようを、そこでは目撃することができたのである。

本書、pp254-257より

ラカンで読む寺山修司の世界 https://www.amazon.co.jp/dp/4901510479/ref=cm_sw_r_cp_api_i_Vt7YCbK1959FV

インゴ・ギュンター の作品は例えばこういうものです。

『ワールド・プロセッサー』は、ドイツ生れのメディアアーティスト、インゴ・ギュンターが1986年から制作している作品群。中に電球の入った直径30センチほどの地球儀を素材として、そのひとつひとつに地球上で起きている様々な問題や現象を表現しています。

テーマは、環境、政治、経済、軍事など、物理的、地理的、社会的なあらゆる範囲に及び、それぞれのタイトルは「オゾンホール」「熱帯雨林の減少」「100カ国語の地球」「TVの普及率」「現在紛争が起こっている地域」、さらには「ヴィトゲンシュタインの世界」など抽象的な概念を表したものも。様々な地球の顔が一堂に会すことにより、緩やかな網の目のような関係性を持った、あらゆる事象を含む世界が杳々と、しかし確実にそこに立ち現われます。「ワールド・プロセッサー」は、現代社会と地球が直面している問題、希望そして美を俯瞰するためのインターフェイスです。

メインギャラリーには108個のイルミネーションの地球儀が整然と並べられ、観客はその間を自由に回遊。各々の地球儀にはタイトルもキャプションも表示がなく、入り口で手渡される配置図と自分のいる場所とを照らし合わせて、地球儀の明かりを頼りにそれが何を表しているのか見つけ出します。サブギャラリーには展示方法の異なる3種の地球儀を設置。そのうちのひとつは「ライブ・グローブ」と名付けられ、アクリル半球に回転する実際の地球映像を投影しました。

http://p3.org/JAPAN/1990/04/project_tochoji_exhibition_worldprocessor1990/」

【最後に】アーティストの役割とは、まだ未確立なのかもしれません。概念も多種多様です。私のできることに向き合い、役割を担っていきたいと思います。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

ありがとうございます♡これからも仲良くしてくださると嬉しいです!
9

池田真優(現代アーティスト)

日経新聞COMEMO KOL/公式寄稿者(2018年7月〜)/現代アーティスト(視覚藝術)/日経電子版トップ 13回掲載/アート作品はinstagramに掲載しておりますhttps://www.instagram.com/mayuikeda_artist/

COMEMO by NIKKEI

日経が推す各業界キーオピニオンリーダーたちの知見をシェアします。「書けば、つながる」をスローガンに、より多くのビジネスパーソンが発信し、つながり、ビジネスシーンを活性化する世界を創っていきたいと思います。 はじめての方へ→ https://bit.ly/2DZV0XM 【...
2つ のマガジンに含まれています

コメント3件

アートの役割を問うことは、人生の役割を問うことに似ている。その答えが課題提起であろうと解決策の提示であろうと。それらは、人生を合目的的にあるいは道具的にとらえる人には意味があるかもしれないが、私は、人生に意味や目的や役割を設定するのは悪いことではないがある種のファンタジーだと思うので、別になくてもいいのではないかと思う(あってもいいけど)。同様にアートも、作り手は表現したいという強い衝動があればそれでよいし、鑑賞する側もいろいろと意味や課題を考えるのは自由だけど、アートとのかかわり方を課題提起に限定しなくてもよいと思う(課題提起を意識して作品を作り、鑑賞するのももちろんアリ)。最近発掘されたネアンデルタール人の壁画は多分問題提起を含んでいないだろうけど、描きたいという思いを十分感じたので私はアートであると思った。
芸術って真面目な人たちを笑い飛ばすようなところがありますよね。
特に現代美術ってそうじゃないですか。
「お前ら必死で働け。俺らは笑いながらゲージュツやる」みたいな。
私はそれがすごく面白くて楽しいと思うんです。
残念ながら私は必死で働く側なんですけど、芸術家のみなさんから笑われることによって少し救われる気がするんです。
芸術には価値相対化する道化としての役割もあるんじゃないでしょうか。
ユーモアは最も高貴な道徳観ではないでしょうか?
価値相対化する道化としての芸術の役割、大賛成です。非常にあると思います。
一方で、それは芸術に限ったことではないと(今は)思っています。
私は、エンジニアとして便利で役に立つ製品を作ることに努力してきましたが、道徳や芸術を考えるのは(好きだけど)自分の仕事ではないと考えてきました。技術は道徳的に芸術的にニュートラルであるという考えです。しかし今は、エンジニアでも自分の仕事に道徳や芸術を含めたり、表現したりできる(しないといけない)と考えるようになりました。
私は工業製品にも、価値相対化、ユーモア、道徳などを込めることができると思いたい。それがAIやロボットが普及する未来に必要な(我々が次世代に残すべき)産業につながると考えています。
芸術でないもの、例えば工業製品には作家性や芸術性は認められないのか?現在の法体系は工業製品(特許権、意匠権)と著作権を明確に分けています。私はそのような思考、芸術とそうでないものを分けて考えることに最近飽きてしまいました。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。