雑な採用面接の合理性と時代の限界
人材研究所 社長である曽和 利光氏が東洋経済オンラインに寄稿した記事が面白い。
『雑な採用面接を増やした「就活サイト」の功罪』
https://toyokeizai.net/articles/-/270614
曽和氏の指摘する通り、日本企業の多くは「面接のロジカル化」が遅れており、素人面接官の直感に頼っているというのが現状だ。「直感とはいうが、何人も面接していると見抜けるようになってくる」という人もいるかもしれない。しかし、経営学的にも、エビデンスに基づく経営実務的にも、その感覚は思い込みと自己効力感によるバイアスを除くことが難しいため、信頼するにはリスクが少々大きすぎるきらいがある。また、「面接のロジカル化」が進まない要因として、「就活サイト」の影響が大きいことも確かだ。
曽和氏の議論には、基本的に賛同しているが、付け加えて別の見方もできるように感じている。それは、「面接のロジカル化」が遅れている要因として、「雑な採用面接でも一定の合理性が担保できていた」ことがあったのではないかと思われる。
人材育成が強い企業では、雑な採用面接でも問題がない
雑な採用面接でも一定の合理性が担保できていたことには、育成との兼ね合いが大きいと思われる。採用の科学は主に産業組織心理学の分野で行われているが、その基本的な考え方として「採用」と「育成」は相互補完的な関係にあると捉える。
これは、人材獲得のために投入できる経営資源を100とした場合、「採用」に70の資源を投入した場合、「育成」には30の資源を投入すれば人材獲得ができるという考え方だ。反対に、「採用」に30の資源を投入した場合は、「育成」に70の資源を投入することで、結果として人材獲得は成功する。現実には、こんなに簡単な関係性で説明することはできないが、基本的なセオリーと言える。
この考え方に依拠したとき、「雑な採用面接」でも育成に資源を投入できていれば、結果として期待値通りの人材獲得をすることができる。「10年後の活躍を見据えて新卒採用をしている」と言う言葉は、裏を返すと「育成で修正できるのだから、採用の精度は多少低くても問題がない」ということと同義だ。その会社に意図はなくとも、結果論としては同じ現象が起きる。
しかし、育成で採用を補完する方針には3つの限界がある。
新人育成のための経営資源が現場にない
第1に、育成を担当することになる現場の負担が大きいことだ。現場は配属される人材の質を統御できず、人事から勝手に配属された新人を使わざるを得ない。たまたま、能力が高かったり、組織文化との適合度が高い新入社員なら良いが、もしそうではなかったときの現場負担が大きくなる。そのため、育成ができるほど経営資源に余裕のある状態でしか、新入社員の質を育成で高めることができない。
ビジネスのスピード化が育成を許さない
第2に、育成には時間がかかるため、ビジネス・スピードが早い業界や職種では不向きだ。特に、情報通信系の業界やエンジニア職は変化のスピードが早い。10年前は「クラウドを知らないと使えない」と大騒ぎしていたのが、2~3年前から「機械学習やAI」にとってかわり、一昨年あたりから「ブロックチェーン」と次から次に新技術が出てくる。素人を教育して、勘所を掴んでもらい、ビジネスに反映していくようなスピード感では間に合わない。
育成期間中に新人のモチベーションが下がる
第3に、育成期間中のモチベーション管理の難しさだ。精度が低い採用をしていると、どうしても適合しない人材が含まれてくる。それは、能力が期待値より低いというだけではなく、優秀だが求めているキャリアの方向性が違ったり、仕事以外の人間関係などで合わないと感じるなど、様々なパターンがある。これらの不適合の結果、育成期間中にモチベーションが低下してしまうリスクがあることは避けようがない。
そして、このリスクを許容できたとしても、マネジメントの上で更なる課題が出てくる。その中で、多くの人事部が気にしているのが新人のフリーライダー化だろう。モチベーションが下がったが、だからと言って離職や転職するわけではなく、最低限の働き方で会社人生を送られてしまう。
また、現場レベルで困る課題は、仕事を覚えたとたんに辞める新人だ。新人としては、それまでのどこかのタイミングで会社内のキャリアに魅力を感じなくなり、けじめとして一定の成果を出してから離職してしまうことがある。
似たようなケースでは、育ってきた新人が引き抜かれるケースも多い。新人が仕事を覚えてくると、評価は上司や同僚が思っているよりも顧客や関係会社などの外部からの評価の方が高くなることが多い。仕事の特性として社外との関わりを持つ機会が多かったり、個人的に社外ネットワーク形成が得意で自己啓発を積極的にしていたりすると、思わぬところから新しいキャリアの打診をされることがある。このようなネットワークによるキャリアの転換は、経営学としては「弱い紐帯の強み理論」によってもたらされると考えられている。
もし、育成に資源投入ができているのであれば、雑な採用面接でも人材の獲得が可能だ。実際に、バブル崩壊後に失われた20年と呼ばれた時期があっても、多くの日本企業は「人材育成がわが社の強みだ」と述べて経営資源の投入を惜しまなかった。しかし、この20年のビジネス環境の変化によって、育成にコストを支払えなくなっている。その二大要因は「IT化によるビジネス・スピードの変化」と「ダイバーシティ推進による従業員の多様化」だ。
IT化によるビジネスのスピード化で、即戦力が求められるようになってしまった。これは売り上げを上げる営業や商品開発だけではなく、事務方のバックヤードでも同じだ。採用活動だけを見てみても、求人サイトからの応募者数の増大によって、IT化以前よりも採用の工数が膨大なものとなっている。
例えば、企業人事はどれだけ応募数が増えようとも、エントリーシートはすべて読むと断言している。このこと自体に疑う余地はない。しかし、応募数が増えても、採用担当の人数は増えておらず、応募締め切りから合格通知までの日数が増えているわけではない。しかも、働き方改革で労働時間は減っている。このことが指すのは、1つの応募者に費やすことができる時間と労力の希薄化だろう。
ある地方都市の金融機関は、例年の新卒採用人数が40名程度であり、約千通の応募があるという。この金融機関の採用担当者の人数は1人だ。彼は、説明会でエントリーシートは必ず全て熟読しているから、しっかり描いてほしいと学生にアピールしている。しかし、この体制ではどうしても物理的に限界がある。
また、ダイバーシティ推進による従業員の多様化によって、育成のコストは上がっている。なぜならば、日本企業の伝統であった率先垂範型の人材育成が通用しないためだ。
ドラッガーも指摘するように、人材育成のための特別な訓練や教育を受けていない場合、多くの人は自分が受けてきた教育と同じことを相手にも経験させ、自分の分身を作ろうとする。この教授法は、同一性の高い組織であり、尚且つビジネス環境の変化が乏しい場合では大きな問題がない。(ドラッガーは、この方法だと教育係よりも一回り小さなスケールの人材ができあがるのでお勧めしていない)教育担当も新人も似たような素養を持っており、教育担当の成功体験を新人が追体験することもできる。
しかし、職場のメンバーに多様性が出てくると、素養も価値観も異なり、尚且つ成功の追体験を味わうことができない。そのため、酷いときには新人にとってナンセンスな苦痛だけがひたすら続くことになる。だが、上司にとっては、自分にとって問題がなかったことなので、なぜ新人が苦痛を感じているのかが理解できない。人間として重要な欠陥があったり、社会人としての自覚がないのではないかという気にもなってくる。
ダイバーシティは、男女などの性差や年齢の世代差、出身国の文化差といった、目に見える違いに焦点が当てられがちだ。しかし、ダイバーシティの本質は認知や価値観の違いである。認知や価値観が違う相手を育成することは、似たような認知や価値観を持つ相手を育成するときとは比較にならないほど、時間も労力も必要となり、教育側の専門能力も必要となる。
「人材育成」を自社の強みとする企業は多い。しかし、そのために、これまで「面接のロジカル化」がおざなりにされてきた。だが、現在のビジネス環境が人材育成による採用の補完を難しくしている。優秀な人材を獲得するために、採用と育成の関係性を見直し、「採用のロジカル化」に着手することは喫緊の経営課題と言えるだろう。
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