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「互いにやさしさを」とか言うけど、安心は対立の中にしか見出せない人々


ツイッター上では、毎日いたるところで誰かと誰かの対立構造を目にします。

最近では、萌え絵を献血ポスターに使った赤十字の話に起爆した、ツイフェミとオタクとの対立だったり、「老害だ」と言われるおじさんと「生意気だ」と言われる若者との対立だったり、考え方が古いだの新しいだの、イデオロギーが右だの左だの、といろいろあります。

「結婚派」と「独身派」の対立と分断も相変わらず続いています。

こうした対立と分断に見られる「俺が正しい」と言い合う争いは、本当に不毛です。そもそも「あなたの正しい」と対立するのは「別の誰かの正しい」であり絶対的正義など存在しないのです。

そんなことをまとめた記事を書きました。まずはご一読ください。

僕のnoteをお読みいただいている方はおわかりだと思いますが(というより、何度も同じこと書いてて恐縮ですが)、とにかく誰が何をどうしようが、未婚化も少子化も人口減少も不可避です。 

「結婚派」の人たちは「結婚しやがれ!」といくら怒鳴ったところで、未婚化は止まりません。政治家が「子どもを産め」という失言を何度繰り返したところで、結婚したお母さんはちゃんと2人の子どもを産んでいるので、それ以上の負担は無理です。

ハンガリーがやったように「子ども一人当たりに多額のお金を与えればいい」と言う人もいますが、子どもは家畜じゃありません。金欲しさに子どもを産む親がいないと断言できますか?たださえ、子どもをエアガンで撃ったり、虐待して死なせてしまう親も後を絶ちません。

僕のスタンスは、「そもそも明治30年代後半からの皆婚時代の100年が異常であり、本来全員が結婚するなんてありえない」ということです。誰もが親として子育てに適しているわけじゃないし、無理やりマッチングさせて子どもを産ませる制度の方がおかしいのですよ。

「しかし、このまま放置したら1億2千万人の人口が半分の6000万人になってしまうじゃないか」

 と顔を真っ赤にして怒る人がいるのですが、だからどうした?

そもそも1億2千万人も人口があることが異常だし、1億2千万人を実現したのは、戦後2度のベビーブームだけに起因するのではない。戦後から現在にかけて、高齢者が死なない「少死時代」によって人口が爆発的に増えたわけです。その反動で今後50-100年間「多死時代」へ突入します。

多死

それについてはこちらに書いたので参照ください。

こうした人口メカニズムは到底人間の力でコントロールできるものではなく、全世界的に今後は人口減少していきます。人口減少の過渡期らおいて、独身が増加するというのも、かつて日本の歴史上あったことで、別に驚くべきことじゃありません。

テレビや新聞に出る際にも、こうしたことは何度もお話していますが、なかなか理解されません。というより、既婚者の方々は「理解したくない」からです。

今回の東洋経済の記事でも、「結婚派と独身派の対立は不毛だ」と書いているのに、案の定コメント欄では、その不毛な対立論が展開されます。

結婚派のコメント

筆者はソロが増えることで、婚姻者は「自分たちの子どもが彼らの老後の負担を背負わされるのではないかと怒りを覚える」と書いておられるが、その通りだ。子供の養育に全く責任も負担も負わないで、労働力としての人材をただ乗りするように見える。事実、近年では子供の養育費は最低でも一人頭2千万はかかるわけで、それ以外の特に教育費まで居れれば莫大な費用になる。子持ちからいえば、ここはぜひきちんと議論してもらいたいし、ソロによる養育コスト(社会循環のコスト)負担なしのフリーライダーはご免こうむりたい。

独身派のコメント

結婚してない人間は「子供」で、結婚してる人間は「大人」。そんな偏った価値観を押し付けるうちのバカ上司。子供とか大人とかじゃなくて選択がただ違う、っていうだけの話。そんな上司、まったくリスペクト出来ない。

今回は上記コメントに対する見解は割愛しますが、こうした対立構造はいつまでたっても変わりません。互いに変わろうともしません。

正直、僕はそれを憂いているわけじゃありません。変わる必要もないと思っています。残念ながら、人間は「感情」で生きるもので、仕方がないのです。

記事にも書きましたが、正義とは単なる「感情の理屈付け」に過ぎません。だから、人間の数だけ正義は存在するし、自分の正義と似た集団に属して安心したいがために、敵を叩くわけです。

人間は不思議なのもので、平穏無事が続くとマンネリ化し、退屈し、やがて不安になります。本当はそうした平穏無事が継続することが幸福だったりするのかもしれないのに、「何も起きないと不安になる」のです。

かといって、自分や自分の身内に何か起きても困る。

そんな時に人間が無意識に行ってしまうのが、「何か不快になる事柄を見つけて、それを叩いて快感を得る」というものです。


不快なものは接触しない方がいいと思いますか?

違うんです。人は、不快なものと接触しないと安心できないんです。


冒頭に書いた、自分と考え方や価値観が違う人同士が、延々と論争を繰り返しているのも、傍から見れば「だったらそんな人たちと接触しなければいい」と思うじゃないですか。

それじゃ、彼らは困るのです。

自分とは異質な誰かを敵とみなして思う存分叩くという行動。それこそが安心を生むからです。敵が見当たらなければ検索してでも発見して叩く。

安心したいから不快な奴を叩くのではない。不快な奴を叩くことでしか人間は安心を得られないのです。

「互いにやさしさを」とか「わかりあおう」とか耳障りのいい言葉を吐く人もいますが、無理ですよ。だって、対立することそれ自体が安心なんだから。

対立し続けても構わない。それで心の安定が互いにとれるなら。

わかりあう必要なんてない。わかりあうって、そもそもそれは妥協であって、多様性じゃない。

むしろ、そんな表層的な「仲良しごっこ」で誤魔化す関係性より、叩かせることによって安心を与えられる「敵」の方が、価値があると言えます。


互いにいがみ合おうが、わかりあえてなかろうが、互いにあずかり知らぬところで、互いの税金や消費が互いの助けになっていればいい。それが経済というものです。

人間が生きていくのに、「共感とか物語が必要だ」なんて言い出す人がいます。自分の好きな人や考え方が同じ人たちで寄り添って助け合うことが美徳だと思っている人がいます。が、本当に誰かを救っているのは、その人間が一番嫌いな奴の行動だったりするかもしれないんだよ。好きとか嫌いとかそんな感情なんか関係なくて、誰かが誰かを(目的意識とは関係なく)結果として救っている。そういう循環構造が社会というものです。

別に、それでいいじゃないの。

それに異を唱える人は、自分の嫌いな奴は死んでもいいと言っているのと同じですよ。

長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。