
何が自分を支えるのか
争いあるいは競争が自分を支え、それが自分を規定する材料となる時代が終わっていることを、端的に語っている記事だと思った。
これは、日本の社会が求めてきた「平等」、それも「条件の平等」というよりは「結果の平等」に近い志向が実現した結果として起こっていること、と捉えることができると思う。
競争が存在した時代、勝者はそれによってアイデンティティを確立できたわけだけれど、実は敗者は敗者で他に自分の勝てる土俵を探しに行き、それが見つかれば、そこでの勝者として振舞うことが出来たのではないか。勉強はできないけれど駆けっこでは一等賞、とか、あるいはその逆とか、何かしらオンリーワンでナンバーワンな場所を見つける余地を、競争が提供していたような気がする。競争が排除されたことによって、自分がナンバーワンな場所あるいはナンバーワンではない場所が見えなくなってしまった結果、誰もが自分が「勝者」でいられる場所を見失ってしまった。
そして、勝者=ナンバー「ワン」ということとやや矛盾するかもしれないけれど、マジョリティであることが勝者=ナンバーワンの一員であり、その恩恵にあずかれた時代も過去のものとなったような気がする。マジョリティであることによって社会における居場所を確保できる、あるいは確保できるだろうという安心感を持てる時代が過ぎ去ってしまった。
マジョリティでありかつては「勝者」であったはずの人々が、いつの間にか「落ちぶれた」マジョリティとなり、そのことに対して反旗を翻しているのが、トランプ大統領の誕生やイギリスのBREXITの選択、あるいはフランスの黄色いベスト運動である、という捉え方ができるのかもしれない。アメリカやイギリスで起きていることは、多数決=マジョリティが支配することのできる民主社会で、マジョリティが浮かばれていない、という矛盾した状況を象徴的に表していると感じる。
自分の場合、父親の転勤で生まれ故郷を出て、保守的な小さな田舎町で暮らすことになった時に「よそもの」というマイノリティになり、背伸びをして身の丈に合わない大学に入った時からある意味での「落ちこぼれ」というマイノリティとして過ごし、様々な経緯で望まなかった就職をした先でもやはり「部外者」として所在なさを持て余すマイノリティだった。なので、マジョリティである人の気持ちが完全に理解できているかというと、そうではないかもしれない。
一方で、今起きていることを眺めていると、マジョリティである人々も、マイノリティが抱える不安や苛立ちというものを否応なく共有せざるを得ない時代なのだ、ということなのかもしれない。
マイノリティとして過ごす中で何が自分を支えてくれていたのかと考えると、同じ田舎町で暮らす外国人やあるいは外国籍の人であり、違う大学に通うことになった友人や大学とは全く関係ない世界の友人たちであり、就職とほぼ時を同じくして結婚することになった家族や会社とは無関係な場所での人間関係であったのだと、振り返って思う。マジョリティがどうであれ、自分との個人的な関係を持ち続けてくれる生身の人間の存在が、ごく少数であったとしても、自分を支える拠り所であった。
SNSをはじめとするオンラインの世界が、生身の人間との距離を遠ざけてしまっているのだとしたら、今という時代を生きていくことは、とてもしんどいことのように自分は思う。今の自分を支えられているのは、生身の人間との関係が、例えオンラインを介してであっても保てているからこそだろう。オフラインを起点とするオンラインの関係をどう構築していくのか。それが、マイノリティはもちろんマジョリティにとっても大きな課題なのかもしれない。