「シュール」への眼差し
日経COMEMOのKOLにこのたび就任しました、遠山です。毎月1度、更新していきます。
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小説家・古谷田奈月のエッセイを読んだ。
>>>「シュール」との関係 小説家 古谷田奈月:日本経済新聞
“「シュール」との関係“では、
“私たちが「シュール」だというとき、それはたいてい、その言葉以外で言い表すのが困難な場合だ。常識はずれで、快不快の入れ混じった、なんとも言語化しづらい魅力ーーそういう複雑なものに「シュール」のひと言で輪郭をつけるのだから、こんなに便利な言葉はない“としながら、しかし本来のシュルレアリズムは「非現実」ではなく「超現実」だと知り、現在は「シュール」を使用することを封じている”
という。ですよね。
分からない感じを含めて、分かります。
でも、現代日本における「シュール」は、かつてのシュルレアリスムを置いておいて「シュール」は「シュール」として一人歩きしているので、それはそれで良いのだと思う。
それより私が困っているのは「抽象」である
具象画に比べてピカソの絵は抽象的でよく分からない、などと言われる。話しが抽象的だから、もっと具体的に話してくれ、とか、具象はダサいくて抽象がスキ、とか、良くも悪くも姿カタチを持たない、不明確なものという印象が一般的かと思われる。
が、抽象の意味を調べてみると「共通なものを抜き出し一般化したもの」「重要なものを抜き出したもの」などとある。現象を抽出したものだと。
画家がいる。目の前に愛する女性がいる
画家は美しき女性をキャンバスに永遠に留めようとしている。画家は彼女の美しい鼻が映えるように横顔を描いた。が、うーん、目は一つしか描けていない。いつもの君には美しい目が二つあって、現実的にいつもみているのは二つなのだから、そうだ、いつもの通りに目は二つ描こう。
鼻はこのままに、どこかで見た有名な絵のようだ。
シュールな抽象画である。
シュールと抽象
シュールは超現実、抽象は大事なことを抽出したもの。
そう改めて考えると、むしろそれらの方がリアルであり本質である、と思いたくなる。
翻って、今われわれが見えているもの、当たり前だと、具体的だと思っていることこそ、神の目や犬の鼻や鯨の会話からすれば、偏狭で思考停止なもの、かもしれない。見えているものに惑わされているのかもしれない。誰かが勝手に作っただけのものかもしれない。見えているモノは少なくとも常に過去のものなわけであるし。
古谷田さん、一緒にシュールという扉、抽象というスイッチを、探しに行きませんか。
この記事を書いた人
遠山正道(とおやま・まさみち)
スマイルズ代表取締役社長/スープストックトーキョー代表取締役会長
1962年東京都生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、85年三菱商事株式会社入社。2000年株式会社スマイルズを設立、代表取締役社長に就任。現在、「Soup Stock Tokyo」のほか、ネクタイ専門店「giraffe」、セレクトリサイクルショップ「PASS THE BATON」、ファミリーレストラン「100本のスプーン」、海苔弁専門店「刷毛じょうゆ 海苔弁山登り」を展開。「生活価値の拡充」を企業理念に掲げ、既成概念や業界の枠にとらわれず、現代の新しい生活の在り方を提案している。著書に『成功することを決めた』(新潮文庫)、『やりたいことをやるビジネスモデル-PASS THE BATONの軌跡』(弘文堂)。
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