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社会や文化の変容における「フェーズ」と「サイズ」

お疲れさまです、uni'que若宮です。

今日は社会や文化の理解における「フェーズ」と「サイズ」について書きたいと思います。



「誰一人取り残さない」と「満場一致」はちがう

社会や文化の変容のプロセスにおいては、それまでの常識と異なる新しい価値観が理解されづらかったりします。

働き方改革やDX、教育、ジェンダーやダイバーシティの問題でもそうした場面を度々目にすることがあります。既存の価値観に安住している大多数の人にとっては「価値観を変える」方が多くのカロリーを消費するため、しばしば「抵抗」や「反発」が起こります。

企業や地域のコミュニティなどでも抵抗勢力が変化の阻害になることはままあります。そんな時、どうしたらよいのでしょうか?

理想的には、異なる意見の人たちとも徹底的に話し合って、合意を得てから物事を進める、というのがベストかも知れません。しかし正直、全く話が通じなかったり、頭から理解しようともしないように思える人たちと話していると、この不毛な議論に時間をつかうよりは、話が通じる同志たちとだけ変革を進めたほうがいい、と思うこともあります。

しかしこうした時、「話が通じない」と割り切って「話が通じる」人とだけコトを進めようとすることは結局「排除」や「分断」を生んでしまうのではないか、という気もして、悩みます。

ジェンダーの話題でも突然見知らぬ人からリプライを送られて来て、あまりに頭ごなしなのでスルーしたりブロックすると、「ダイバーシティを言うくせにこっちの意見は無視するのか」と言われたりします。

ただし、このうちの多くが「突然一方的かつ最初っから喧嘩腰」で持論をぶつけてきたりするので、そういう場合は基本的にスルーするかあまりにひどければ毅然と拒絶することにしています。その時の基準は論やスタンスのちがいではなく単に暴力的かどうか、というものです。見知らぬ人にいきなり暴言を吐く人は対話を望んでいるとは思えないので、取り合ってもせいぜい喧嘩の売り買いにしかなりません。


「暴言」は取り合いませんが、きちんとした主張や疑問の投げかけから始まり、意見を交わせる方とはやり取りをしています。しかし、(とりわけテキストベースで情報量が少ないSNSでは)対話を重ねても考え方がどこまでいっても平行線で、お互い主張を譲れず歩み寄れない場合もあります。

結果、異なる意見の方と話す方が時間もかかりますし心的な疲労も大きくなります。異論があるひとに対して、全員に理解してもらいながら進もう、とすると変化の推進力も落ちます。


なので、なにかアクションを起こす時に「話が通じる人だけわかってくれればいい」と思うこともあります。しかし、これは切り捨てや排除ではのないでしょうか?SDGsでも「誰一人取り残さない」ということが掲げられているはずです。多様性とはみんなの意見と向き合い、合意を得ていくことではないでしょうか?


価値許容の「フェーズ」のちがい

このジレンマにしばらく悩んでいました。色々考えて、今のいったんの結論は、「フェーズによっては”また後で!”もアリ」というものです。

人はそれぞれ価値観がちがいます。だからこそ「誰一人取り残さない」ことが必要なのですが、それは必ずしも「その時点で満場一致しなければならない」ということではないと思うのです。

既存の常識とちがう価値観はすべての人が最初から理解できるものではありません。アートにおいても、同時代アートはほとんどの人に理解されないか、あるいは反発されるという事がよくあります。アンリ・マティスやピカソがあたらしい価値観の絵画を提示した時、すぐには理解されませんでした。


サービスや新規事業に関わる方は、「キャズム理論」というのを聞いたことがあるかと思います。

https://boxil.jp/mag/a2991/

新しいサービスやプロダクトが普及していく際、すべての人が一度に使い始めるわけではなく、フェーズの移行があります。「イノベーター」や「アーリーアダプター」などがいち早く試しますが、そこから「マジョリティ」そして「ラガード」が手に取るまでには、「価値観の違い」による「深い溝」があり、タイムラグがあります。

「誰一人取り残さない」ということを考える時、一つにはこうした通時的な考慮が必要かもしれません。それは価値観の変容や受容にかかる時間は人によってちがう、ということです。

であれば特に初期段階において「満場一致」や全員の「共通理解」を得ようとすること自体が僭越であり、過大なことかもしれません。


新しいことは小さくはじまる

アート思考に関しても、新しい価値観は会社で理解されない、どうしたらよいか?という質問を受けることがあります。そんな時には、まず小さくはじめましょう、というお話をします。

僕はロジカル思考/デザイン思考/アート思考をこんな風↓にフェーズと組み合わせて考えています。ロジカル思考はみんなが理解できる「共通理解」の段階であり、デザイン思考は感受性にもよるので誰でも理解できるわけではありませんが一定の「共感」はあります。これに対しアート思考的な価値はみんなの理解を超えているところがあります。

まず思考のフェーズを左側から行くと、ロジカル→デザイン→アートと進むほどに、誰しもがたどり着ける一般的なものから個別的なものになっていきます。アート思考のゾーンは「みんな理解できるわけでなく自分ひとりにしか見えない世界」。原体験や偏愛にドライブされた起業家はしばしばクレイジーと言われますが、だからこそ常識に囚われない革新ができます。

ただ、自分だけに焦点を結んだ「点」のフェーズにとどまったままマスターベーションになってしまいます。社会に対して価値を届けるためには、今度は「共感」「共通理解」へと広げていくことも重要です。


このように、社会の変容においては「フェーズ」という考え方が大事だと思っています。

アート思考フェーズ(0→1)において、全員に理解してもらおうとしてもうまくいきません。反発に合い潰されてしまうことすらありますから、アート思考フェーズにおいては、同じ想いを一人称で共有できる人たちとだけ始め、それ以外の人にはまだ知られない方がよいのです。(企業の新規事業の場合、最初から社内決裁をとって社のリソースを使おうとせず、会社にみつからないように秘密裏に始める)

大企業のマネジメントには小さな事業に必要な感覚がない。大企業は小さな事業を理解できない。したがってまちがった決定を行う。だが大企業といえども、革新を行うには冒険的な事業には手を付けなければならない。新しいものは、常に小さなものからはじまる

ピーター・ドラッカー『マネジメント』

一人称のフェーズはとても小さく賛同者も少ないのですが、熱量が溜まってくれば耳の早い人からそれを聞きつけ共感者が集まってきます。そして徐々にその価値が浸透し、みんなが認めたフェーズになって最終的にみんなに届くのです。

こうしたフェーズの変化を考えれば、最初から「満場一致」は求めるべきではなく、むしろ理解されない時期があるのは必然とも言えます。


「いったん置いておく」もアリ。でも、必ずあとで戻ってくるからな!

大事なのは、こうした時間軸を考慮することです。

たしかにいずれ社会のスタンダードとなる、みんなのための変化だったとしても、今の段階でそれをみんなに求めるのは時期尚早、というケースがある

こういう場合、現時点で理解を得ることにこだわるより「いったん置いておく」方がよいのです。

ただ一方でこれは、その時点で考えが合わないひとを「切り捨てる」ということではありません。単に「今じゃないね」というだけです。なので気持ちとしては、「すまん…いったん先にいく!でも必ず後で戻ってくるからな!」という感覚が近い感じかなと思っています。

たとえばSNSなどで見解の相違があった際、その時点で合意に達する必要は必ずしもない、と僕は思っています。なぜならすでに述べたように受容にはタイムラグがあるからです。このラグを無視して短期的に説得しようとお互いがすると「論破合戦」みたいになってしまいます。

個人的には異なる意見については、一定対話をした後は「それぞれちがう意見があるね」としてどちらか結論を出さず、オープンにしたまま終わるのがいいのではないかと思っています。なぜなら価値観の違いを受け入れるにしても相手がまだそのフェーズにないか、あるいは自分がまだそのフェーズにないか、ということがありえるからです。そのタイミングで強硬に説得を試みるよりは時間をおいた方が価値観が受け入れられることがあるでしょう。(これはサービスでも同じで、「マジョリティ」や「ラガード」に無理に初期からサービス利用をゴリ押すと却ってネガティブキャンペーンにしかならないことがあります)


価値観の「サイズ」

もう一つ、価値観については共時的な視点も必要です。いくつもの価値観が同時に共存しえるからです。

多様性において「誰一人取り残さない」というのは、必ずしもひとつの論理や価値観に収斂することではありません。

異なる価値観があっても、それぞれ自分を受容してくれる「居場所」がどこかにあればよい、とも言えます。逆に、「みんなを受け入れる社会をたったひとつだけつくろう」とすることはuniversalかもしれませんが価値観としてはひとつでdiverseではないとも言えます。

企業活動についてドラッカーは、

企業は自らの規模を知らなければならない。同時に、その規模が適切か不適切かを知らなければならない

ピーター・ドラッカー『マネジメント』

と言っていますが、多くの企業では自分たちの適切なサイズを知ることなく、自社の製品をとにかくオールターゲットに広げようとし、その結果、カニバリや無用な競争が生まれていたりします。

そしてこれは社会的な価値観についても言えることではないでしょうか?キャズムを超えて徐々に浸透しても、その価値観が全人類に共通の価値になるわけではないのです。価値観にもそれぞれ最適な最大のサイズがあり、異なる価値観が共存しているはずです。

重要なのは「共存」であって、異なる価値観を攻撃して占領しようとしたりせず、かといって、無いことにもせずにお互いの存在を知り交流しながら「共にある」ことでしょう。



まとめます。価値観のちがいや社会、文化の変容について見解の相違が合った場合には「満場一致」をその時点で求めるのではなく、「フェーズ」を考慮して「いったん置いておく」ということも大事です。それは「取り残す」ということではなく、むしろ「取り残さない」ためにこそ、その時点でどちらかに決めてしまうのではなく、時間をおいてタイミングを待つ、ということです。

そしてまた価値観には適切な「サイズ」もあります。twitterもtik tokも万人が使うものにはなりえませんし、それぞれ異なるサービスをつかったり、あるいは併用したりしますよね。同じように、自分の価値観がいかに正しいと信じようと(それが今よりも十分に浸透した後でも)なお別の価値観が共存しうる余地はある、ということです。

拙速に「満場一致」を求め争うのではなく、こうした通時的・共時的な感覚をもっておくことが、本当の意味での「取り残さない」ということではないか、というのがいったんの僕の考えです。

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