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Society5.0とSDGsのための資本(改)主義試論 〜「資本」をアップデートする

お疲れさまです。uni'que若宮です。今日は「資本主義」について書きたいと思います。
(最初にお詫びですが、僕の思考のメモ的なものなので記事中の「資本」などの用語は厳密なものではありません。その辺まだ詳しくないので語法の誤りなどあればやさしく教えて下さい)


最近アマプラで2本映画をみました。2つの映画はとても対照的なもので、

一本目の『マネー・ショート』は、世界的な恐慌の火種となった米国のサブプライムローン危機についての映画です。サブプライムローンという低所得者向けのローンを(実体経済を超えて)売りまくった結果、バブルが弾けて巨大投資銀行の倒産や大暴落が起こるわけですが、「金融商品・の金融商品」というマネーゲームの連鎖がクライシスを増幅しました。

対する二本目の『The Taste of Nature』は日本のサードウェーブ・チョコレートの旗手、中目黒のgreen bean to bar CHOCOLATEのオーナー安達建之さんが上質なカカオを求め南米へ渡り、現地のひととの関係構築から丁寧にプロダクトをつくっていく姿が描かれています。


たまたま立て続けに観た2つの対照的な映画から「お金」と「資本主義」について考えたのでした。


Society 5.0はいかにして可能か?

またもうひとつ、先日元経産省の方々とSociety 5.0についてお話する機会があったこともきっかけです。Society 5.0とは狩猟社会(Society 1.0)→農耕社会(Society 2.0)→工業社会(Society 3.0)→情報社会(Society 4.0)の後にくるとされる社会で、

サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する人間中心の社会の状態を「Society5.0」と日本では定義

されているそうです。

「人間中心の社会」といっても生物多様性を無視して人間だけのための社会を考えようということではなく、デジタルの力も活用しながら、しかしシステムや制度中心ではなく人間を中心に置こう、ということなのですが、どうしてSociety5.0が望まれているかというと、日本がはいま新たな課題に直面しているからです。


日本は今後、超高齢化と過疎化が進みます。すると一部の地域では今のままでは病院や小売、教育のようなサービスが成り立たなくなってきます。

(出典:デジタル市場に関するディスカッションペーパー ~産業構造の転換による社会的問題の解決と経済成長に向けて~

過疎化の進行により生活が非常に不便な状態となり「陸の孤島」的に分断されることも考えられます。資本主義的にいうとコストとリターンが合わないと継続が難しくなりますから、一定の閾値を割り込むとサービスが撤退してしまうわけです。こうした不便を解決するためにデータとデジタルの力を活用し、人流(人の移動)と物流(モノの移動)、情報流(情報の移動)、金流(お金の移動)まで含めて最適化し、社会全体として課題解決を図ろうというのが、ざっくりいうとSociety5.0の目指すところです。


しかし、こうしたデータの連携・一元化はなかなか上手くすすみません


先日もこんな記事が出ていたのですが、

たとえば、この「PHR(パーソナル・ヘルス・レコード)」という言葉。電子カルテのデータや検診データ、服薬、体重や血圧などの生体データを一元管理することで、個々人に最適なヘルスケアサービスを受けられるようにする、というSociety5.0的な発想ですが、実はいま初めて生まれた発想ではなく、『どこでもMY病院』として構想が掲げられたのは2011年で、10年経ってやっと統一ルールをつくりますか、という状況です。


一元化を阻むもの

ちょうどこの頃、NTTドコモでメディカル・ヘルスケア事業の立ち上げを行っていたので、こうしたデータの一元化がどれだけ難しいかを身を持って実感しました。

たとえば電子カルテのデータや健診データをとっても、フォーマットは病院ごとにばらばらであり、それを扱う機器もちがうため、統一化や一元化をしようとするとこちらを取ればあちらが立たずでなかなか調整が進みません。

技術的な難点も勿論あるのですが、もう一つ、原理的に「企業利益」がこうした一元化の障壁になっていたように思います。


詳しくいうと2点あって、一つには(1)企業にとってはデータを一元化しないほうが儲かる、という事情があります。たとえば電子カルテをつくっているメーカーからすると、扱うデータに自社でしか扱えない項目があると、次の買い替えのときにも同じメーカーのものを買わざるを得ないため、顧客を囲い込み、リピート化できます。反対に、全て一元化してしまうと、容易に他社製品に乗り換えられてしまいます。通信キャリアもかつては自社でしか使えないように「SIMロック」をかけていましたが、「独自の排他的な仕様」によってexclusiveにするほうが儲かるのです。


また先程述べたように(2)一元化には想像以上にコストがかかります。しかも、そのために投資をしたからといって売上は増えず、それどころか他社に乗り換えられ減収しかねません。するとどうなるか?どうせデータを提供したり一元化するなら、自社がビッグデータの胴元になろう、と各社が覇権を争って牽制し合うことになります。

つまり、一元化は企業にとっては「莫大なコストをかけて顧客を減らす」というデメリットに見えてしまい、企業努力として「利益」を確保しようとすればするほど、なるべく自社データは出さない方がいいとなりがちです。社会全体の利益よりも個社利益が優先され、「囚人のジレンマ」のような状態になってしまっているのです。

これはその企業が私欲にまみれているから、というのではなく、「経済的利益」を目指すと企業が構造的にexclusiveに向かう、という構造的な問題であり、それがSociety5.0が目指すInclusivityと背反してしまうのです。


「資本」を「経済資本」から拡張する

こうしたことは企業が「利益の拡大」を至上命題とする限り、根本的に変わらない気がします。

「資本主義」が使われた最初期の事例であるルイ・ブランは「私が資本主義と呼ぶものは、ある者が他者を締め出す事による、資本の占有である」と述べています。

しかし、すでにみたようにこうした排他的資本主義、すなわち他社と顧客を取り合ったり顧客を囲い込んだりする発想からは、Society5.0は実現されないのではと思います。


ではどうしたら、データの相互提供や一元化という「経済的資本市議からは不”利益”になる」ことを企業が目指すのでしょうか?

一つの考えられる仮説は、「資本主義」の「資本」を拡張することです。

「経済資本」だけではなく、社会とのつながりを加味した資本主義へのシフト、たとえば社会に役立つデータをクローズドではなくオープンにしたり、特許を公開したりした時に、企業価値が高まるような資本評価の仕組みをつくれればそれは変わるかもしれません。

資本主義は資本を活用して資本を増やすことを目指しますが、現在の資本主義は基本的に株主資本主義ですし、そこでは「経済資本」の拡大しか目指されていません。こうした価値観からすると「利益が大きく、利益を増やし続ける企業」が理想的とされます。決算発表では「増収増益」が一番いい発表です。要は「利益が多い方がかっこいい」のがいまの資本主義なわけです。

こうしたゲームの中では、労働者を搾取し労働コストを抑えたり、市場を独占したりするほうが利益があがり「成功企業」と褒め称えられますから、企業はそうした行動をとります。

しかしもし、「利益」や「経済資本」だけではなく、社会とのつながりという資本から企業価値を評価するようになったらどうでしょうか?


「社会関係資本」と「文化資本」

「資本」は必ずしも「経済資本」に限りません。

たとえば、ブルデューは個人の人生の形成のベースとなる「資本」として「経済資本」の他に、「社会関係資本」や「文化資本」というのを挙げています。

人が成長し、どんなキャリアを構築していくか、というのには経済的状態をふくめた家庭環境や人脈、教養などが影響します。これは逆に言えば、その人の可能性を測るためには、経済資本だけではなく、社会関係資本や文化資本も考慮せねばならない、ということでもあります。


これを「法人」に拡張してみます。法人の場合でももちろん、キャッシュがあるほうが色々な可能性が拓かれますから、経済資本は重要です。しかし、それだけではなく、その法人が社会とどんな関係をもち、どれだけの人とどれくらい深い関係をもつか、ということやその企業の「カルチャー」を形成しているか、ということまた「資本」だということになります。


たとえば、同じような商品を売っている企業があった場合、「経済資本」だけに注目すると利益がより大きく、フリーキャッシュフローが多くある企業の方が「優良企業」だということになります。

しかし、そのキャッシュを生むために、従業員を搾取していたり、安価だからと環境負荷の高い原料を使っていたとすると、「社会関係資本」としてはマイナスでしょう。

強調しておきたいことは、それが倫理的によくない、というだけではなく、企業の活動の元となる「資本」としてマイナスだということです。短期的には経済資本を増やすようにみえても「社会関係資本」がマイナスの企業は、中長期的には経営が破綻する可能性が高いでしょう。


たとえば人的資本についてドラッカーはかつてこう言っています。

「人こそ最大の資産である」という。「組織の違いは人の働きだけである」ともいう。事実、人以外の資源はすべて同じように使われる。
マネジメントのほとんどが、あらゆる資源のうち人がもっとも活用されず、その潜在能力も開発されていないことを知っている。だが現実には、人のマネジメントに関する従来のアプローチのほとんどが、人を資源としてではなく、問題、雑事、費用として扱っている。

人を資産として財務諸表に計上すべきであるとの最近の提案の底には、このような認識がある。
もちろん、人を資産として記載することはやさしくない。資産とはその性格上、処分することが可能であり、清算するとき価値を持つものである。人は、企業の所有物ではない。売れないものは資産ではない。調練による利益の測定方法など、実務上の問題もある。しかしそれでも、この提案には見るべきものがある。

従業員は現状、財務的には「費用」としてしか認識されません。そうすると「経済資本」だけを重要視すると育成せず搾取し、使い捨てるのが一番「効率的」になったりします。いわゆるブラック企業はこうして生まれます。

しかし「社会関係資本」はどうでしょうか?搾取された従業員は将来に渡ってその会社にネガティブな感情をもつでしょうし、まちがってもその企業を応援したいとは思ってもらえないでしょう。そしてその従業員の先にいるひととの「関係資産」も毀損してしまうでしょう。

冒頭にあげた『The Taste of Nature』で、安達建之さんは南米の奥地まで足を運び、カカオの生産者の生活を含めてあたらしいチョコレートのあり方をつくろうとします。これはかつては搾取(つまり費用)でしかなかったカカオ生産者とあたらしい「社会関係資本」をつくろうとすることです。


「文化資本」はさらに見えづらく測りづらいものですが、同じ動画サブスクを提供していてもカルチャードリヴンな経営をしているネットフリックスや、日本でいうとクラシコムさんのような企業はそのユニークな企業文化を元に他の企業にはマネできない価値を生みつづけています。それはまさに「資本」ではないでしょうか。


資本主義をアップデートする

20世紀はまちがいなく「資本主義」の時代でした。社会主義や共産主義ではなく、ある程度自由に競争することで経済は発展し、アメリカ型の資本主義が全盛となりました。シリコンバレーはそうした資本主義の寵児だといえるかもしれません。

しかし「経済資本」だけの拡大を追い求める資本主義が消費や搾取を拡大再生産し、社会とのつながりや文化を壊してしまったのも事実です。

とはいえ、「資本主義が悪」だというのも一面的ですし、資本主義を捨てて社会主義や共産主義へと転換されるか、というとそれも上手くいかない気がしています。いずれは未だ無い「〇〇主義」が生まれるかもしれませんが、それまでは資本主義の悪いところを是正し拡張しつつ「資本(改)主義」へとアップデートしていくのがいい気もするのです。


来たるべき社会として目指されている、Society5.0やSDGsには「Inclusive」というキーワードがあります。「経済資本」だけの資本主義ではExclusiveによってこれに背反してしまっていました。また経済資本は基本的に「消費」を生みます。これに対し「社会関係資本」や「文化資本」はexclusiveなものではなく、共有でき、かつ消費されにくいものです。

これまでみえていなかった「資本」を社会や文化の面から捉え直していくことで「資本主義」はもう一段成熟したものに進化できるのではないでしょうか。

(これはあくまで試論で、社会関係資本や文化資本をどう見える化していくか、という方法論や「貨幣」以外の価値交換の仕組みなど具体はこれからもう少し勉強しながら考えてみたいと思っています。興味ある方はいっしょにぜひ考えましょう)

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