
大人よ、負債を返し若い力に可能性を手渡そう 〜娘の「もったいない」とオリンピックを振り返って考えた、 #SDGsへの向き合い方
お疲れさまです。uni'que若宮です。
今回はSDGsのことについて書きたいと思います。
「もったいないことは?」と娘に聞いたら意外な答えが返ってきた
いまとある案件で、SDGsをテーマにしたワークショップを考えています。
なるべくお勉強ではなく子どもたちに自分ゴトとしてSDGsを考えてもらえるように、身近なお題にしたいと思っているのですが、「あなたがもったいないと思うことは?」というお題を出して子どもたちに自分たちの身近な視点から書き出してもらい、そこからSDGs的な技術や活動の話につなげるのはどうか、と思いつきました。
ワークショップで大事なのは「余白」の設計。あまり条件が多いと誘導のようなことになって本人たちらしい意見が出てこないし、逆になにも条件がなく白紙をわたしてもいい意見は出てきません。ちょうどいい「余白」になっているかは実際やってもらってみないとわからないので、パイロット的に家族にまずワークショップの実験台になってもらいました。
「もったいないと思うことは?」ときいたら、彼女たちなりの視点からフードロスや衣服、おもちゃや本など、3R(reduce、reuse、recycle)的観点から「もったいない」が色々と出てくるかなと期待していたのですが、ちょっと意外な回答が返ってきました。
それは
台湾とかみたいに才能がある人が活躍できていないのがもったいない
という意見です。「才能のもったいなさ」という方向は正直想定していなかったのですが、言われてみて「たしかに…」と思いました。
「台湾とかみたいに」というのはオードリー・タンさんが念頭にあると思うのですが、たしかに他国と比べると日本は才能の生かせてない感がすごい。SDGsには「目標4 質の高い教育をみんなに」や「目標5 ジェンダー平等を実現しよう」などもあります。適切に才能を社会に活かしていこう、というのもSDGsの大事な観点です。
まったくSDGsに反していたオリンピック
今日でパラリンピックも閉幕しましたが、今回のオリンピックではさまざまな問題が噴出しました。日本社会の問題もありますが、それに留まらず「近代オリンピック」そのものの意義を問い直すべきものだった気がします。
スケートボードや高跳びなどいくつかのスポーツで競争を超えて称え合う姿がみられました。肉体を酷使し「勝ち負け」だけを目的にするようなスポーツのあり方はSDGs時代には見直されていくのではないでしょうか?
また、「才能のもったいなさ」もまさにオリンピックは露呈していました。何より、あの開会式です。こちらの安川さんの記事がぜひ的を射ているので読んでみてほしいのですが、
気心の知れた偉いおじさん仲間で仕事を回す
というのを読んで、「ほ ん こ れ !」と心から叫びました。
その後にある、mikikoさんのメールもこの国の「才能のもったいなさ」を象徴しています。
〈去年の6月に執行責任を任命され、全ての責任を負う覚悟でやってきました。/どんな理不尽なことがあっても、言い訳をしないでやってきました。それを一番近くで見てきたみなさんはどのような気持ちでこの進め方をされているのでしょうか?/(略)でも、またこのやり方を繰り返していることの怖さを私は訴えていかないと本当に日本は終わってしまうと思い、書きました〉(MIKIKO氏 電通関係者10名へのメール)
「またこのやり方を繰り返していることの怖さを私は訴えていかないと本当に日本は終わってしまう」
2020というとコロナ禍がどうしてもトピックになるので「有事」のせいの混乱に見えるかもしれませんが、それ以上に「平時」の組織のあり方・進め方自体にもともと溜まっていた「膿」が噴出した、というのが本質だと思います。
SDGs観点からいえば、4年に一回持ち回りでわざわざ新しい競技場をつくったりわざわざ土木を整備したり、そのコストを「経済効果」で正当化するオリンピックはSDGsにまったく反しています。建築や土木の整備が不十分だった時代にはそれが「国の発展・開発」を後押しし、「近代」化に役立ったのかもしれませんが、今ではもうすでに過剰となっています。
バッハ会長の豪遊に象徴されていますが、それはまったく「無駄づかい」といっていいものです。先々使い道があるのかもわからない大きな箱をわざわざつくり、わざわざかりそめの「消費」を拡大することが現代において意味があるとはあまり思えません。
オリンピック・パラリンピックが終了したら、この時代遅れの「近代」を卒業し、SDGs時代のあたらしいあり方に向けて議論を始めるべきではないでしょうか。
「気候正義」における先進国の責任
先日、ハフィントン・ポストの南さんのツイートを拝見して、
同僚や家族、友だちに全力で薦めたい一冊に出会いました。
— Marie Minami / ハフポスト (@scmariesc) August 23, 2021
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『気候崩壊 次世代とともに考える』
京大の宇佐美誠先生と10代の哲学対話。気候変動を自然科学の観点だけでなく、倫理の観点で捉えることができて、世界の見え方が変わる!生徒の質問も鋭い。。
45分くらいで読めますので是非是非🙏 pic.twitter.com/8r3ZwcHFpI
宇佐美誠さんの『気候崩壊 次世代とともに考える』という冊子を読みました。
宇佐美さんの講義がそもそもわかりやすく勉強になるのですが、それについて中高生が質問・対話をしている部分が「べき論」だけではなく実感のこもった議論になっていてとてもよいです。気候崩壊や気候正義について家族で議論するのにもおすすめですので、よかったらぜひ読んでみてください。
この中に「気候正義」という考え方が出てきます。
「気候正義」の原語は「climate justice」。「正義」というと悪の対義語としての善的なものを想起しますが、ここではどちらかというと「天秤」が象徴する「公正さ」という方がイメージが近いかもしれません。
本文中の例を簡単に紹介すると、例えば「排出権取引」に関する問題。先進国と新興国とで条件がちがう中で「排出権をどのように分配するべきか」という議論について紹介されています。
そして、分配の考え方として「過去準拠説」「平等排出説」「基底的ニーズ説」という3つの考え方が挙げられています。
「過去準拠説」は一番簡単です。ある時を基準年として、その時の各国の排出量をもとに、許される排出量と削減目標を定めるわけです。企業の予算も過去データを元に分配がされることがありますが、それに似ていますね。ちょっと考えればわかりますが、この考え方では新興国は先進国に対し不利になります。基準年時点で排出量が少なかったとするとそこからの増減で考えられてしまうからです。もともとあまり排出していなかった国ほど基準量が少なくなり、もともと多く排出していた国ほど排出量が多く許容されることになります。これはあまり公平とは言えません。
そこで「平等排出説」です。これは一人あたりどれくらいCO2を排出してよいかを基準にするもので、先進国でも新興国でも等しくCO2排出の権利が勘定されることになります。もし先進国の人がCO2を排出しすぎであればそれは抑え、まだCO2排出が少ない新興国の人が快適にくらせるようにもう少しCO2を排出するのは許容するわけです。
この考え方は一人ひとりの平等に立脚していますから、シンプルな公平性があります。しかしより実態に即して考えると、地域によって人が生きるのに必要なCO2排出量はちがいます。たとえば極寒の地域に住む人やあまりに酷暑で室温調整が必要なところの人が必要とするCO2量は、温暖で冷暖房を要しない地域の人たちよりは多くても妥当です。こうしたことを考慮し、地域ごとに人間が健康にすごせるだけの「基底的ニーズ」を算出し、それに応じてCO2量を定めるのが「基底的ニーズ説」です。
以上のように「気候正義」は気候危機に対処するためのコストや削減のための制限の責任を、誰がどれくらい負うべきか、という議論です。そして、これは責任の問題でもあるので、気候変動に対してこれまで与えてきた影響も考慮されなければなりません。そう考えると、先進国は新興国以上にこれまでにすでに多くのCO2を排出し、あるいは森林伐採や原料の輸入などで新興国を搾取することによって裕福さと快適さを得ており、「気候崩壊」に対してより責任が重いことになります。
「世代間正義」における大人の責任
そしてこうした「気候正義」の考え方から「世代間正義」も問題になってきます。
先進国がこれまで環境に負荷を与えながら裕福さ、快適さを享受してきたように、いま大人である世代は地球環境に負荷を押し付けることによってこれまで快適さを享受してきました。しかしこれからの世代は同じようにはこれを享受できなくなります。気候は悪化し異常気象や感染症などより過酷な状況と生きていかなければならなくなり、またその悪化を食い止めようとするならCO2排出をさげるためこれまでより多少不便な生活を我慢する必要もあります。気候対策のためにより多く税金を負担する必要もあるでしょう。
そして次世代がこうしたいろいろな犠牲を受け入れなければいけないにも関わらず、その原因をつくり快適さを享受したのは上の世代なのです。これは明らかに不公平です。今日本で大人である世代は、快適さを十分に享受した世代です。それはいわば環境を搾取して「うまみ」だけ吸い取ってきたということもできますが、この世代はこのまま問題の後処理を次の世代に残して「逃げ切り」が出来てしまいます。
「気候正義」の観点から考えるなら、大人たちこそ気候崩壊の責任が重く、生活を見直し、対策のためのコストを負担すべきだということになるのです。
大人は負債を返し、若者に可能性を享受できる権利を
「気候正義」という観点からいえば、「先進国」として、そして長らくその「うまみ」だけを享受してきた「大人」として自分の責任を考えてみる必要があります。日本は新興国以上に、(ゴミをつくっていることにすらなりかねない)近代オリンピックのような「消費主義」を見直していかなければいけません。
そして「大人」として、自分たちが享受してきたものと表裏の責任を改めて問い直し、気候やさまざまな社会問題の解決のために、さらに利益を得るのではなくコストを負担していかなければならないでしょう。
とくに、「現時点での先進国」「現時点の成功者」ほどそうした利益を享受し環境や社会的弱者を搾取している可能性が高いため、「先進国」や「成功者」ほどそうしたより多くの「責任の負債」を負っています。その負債を返すため、既得権を返上し、そこから得られる利益や快適さを次世代に譲っていかなければならないのではないでしょうか。
しかし、今回のオリンピックはこうしたことの真逆でした。「先進国」として相変わらず「消費主義」で大金をかけて箱をつくり、「気心の知れた偉いおじさん仲間で仕事を回」し、利益を享受してきた大企業がさらに利益を得て、そのツケは中小企業や個人、そして何よりも「次世代」に平気な顔で回すのです。
mikikoさんの言葉をもう一度引きます。
「またこのやり方を繰り返していることの怖さを私は訴えていかないと本当に日本は終わってしまう」
どうでしょう、大人のみなさん。ここいらで本気になって(自分たちが無自覚に享受してきた)快適さとその負債を返していきませんか?
誤解のないように申し添えると、「世代」という言葉をつかっていますが、これは単純に年齢の話ではありません。当然ですが、高齢者のための福祉をなくせばいいというような話でもありません。ポイントは個人であれ企業であれ「いかに自分たちがこれまで快適を享受し、その責任と負債を負っているか」ということを自覚し、そしてその負債の分、次の世代のためにコストを支払おう、ということです。
負債の返し方には色んなやり方があるでしょう。価格が高くても環境フレンドリーなものに切り替えるとか、お金に余裕ができた分を環境のために寄付するとか、あるいはメルカリの山田進太郎さんのように次の世代の教育にお金を使うとか。こうした議論をするとじゃあお前は寄付してるのか、とかいう押しつけ合いになったりしますが、それぞれが出来ることを考えていくことが大事だと思います。さきほど述べた「基底的ニーズ」のような考えで、それを超える余剰を享受しているとおもったらそれを手放す。いま余裕がない人にまで生活の犠牲を求める必要はありません。
僕としては、寄付も含めてこれまで以上に環境負荷を考えそのコストを負担して行こうと思っています。そして、娘の言う「才能のもったいない」の解決に向けて、若い世代が活躍できす環境をつくることを意識していきたいと思っています。そのためには「席」を空ける必要もあるでしょうし、仕事の機会を譲ることも必要かもしれません。あるいは、SDGsのための事業や解決策を持っている若い力の起業の機会をもっとつくっていきたいと思っています。(今女性起業家創出の『Your』というインキュベーション事業をやってますが、そのSDGs版『Our』を立ち上げるとか)
宇佐美さんの言葉を引用します。
知能社会で必要とされる新しい発想は、壮年·老年の世代からはなかなか出にくいように思います。特に、既存のシステムを部分的に改善するような着実な発想ではなくて、システムの全体を変革するような大胆な発想は、なおさらです。というのも、壮年·老年の人たちは長年、システムに慣れ親しんできたからです。
さあ、ここで若者の出番です。若者には、システムにとらわれない自由なイノベーションの提案が期待できます。
気温上昇は南極の氷を溶かし、さらなる気温上昇を引き起こします。この「ポジティブフィードバック」によって、気候変動はこれから累乗のスピードで進み、気候崩壊に向かっていくでしょう。これに対抗するためには線形の努力では無理です。今わたし達が次世代のためにコストを負担し若者の可能性を開けば、次世代はさらにそこから新しい改善を見いだせます。そこにも「ポジティブフィードバック」が働くのです。自分たちの線形な発想では解決がむずかしいことも、若い世代に託すことで累乗のスピードで解決してくれるかもしれません。
もしこの記事を読んだあなた(個人でも企業でも)が、もう十分に「大人」で、もう十分「快適さを享受してきた」と思ったら、この後5分でよいので、さらに利益を享受したり「逃げ切り」するのではなく、負債を返して次世代に「尻拭い」ではなく「可能性」を手渡すために何ができるか考えてみませんか。