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何がコミュニティを殺すのか?~「分断」を乗り越える「思考」の意義~

 Potage代表取締役 コミュニティ・アクセラレーターの河原あずさです。ちょっといつものCOMEMO記事とはテイストが違うかもしれませんが、新型コロナウイルスをめぐる昨今の状況に対して思うところがあったので「コミュニティの死」というテーマで筆をとることにしました。

 記事を書いている2021年4月25日はちょうど、三度目の非常事態宣言が発令された日です。GWがいよいよはじまるという雰囲気の中、残念に思う方、ニュースに心が揺れる方、状況をネガティブにとらえる方、さまざまいらっしゃるかと思います。

 そんな中、SNSをみると、少なくとも2021年1月の非常事態宣言とはちょっと違う雰囲気があるなと感じています。その雰囲気を探ってみると、非常事態宣言に際しての行政からの「要請」に対する疑念が根っこにあるように見えます。

 このような状況に対して、私も懸念を感じる1人です。しかし考えれば考えるほど、その懸念が、もっと奥深いところにある違和感のようなものに起因するような気がしてきたのです。そして、何が自分の違和感の原因なのかが「コミュニティの死」というキーワードを呼び水にして、頭の中でつながったのです。

 以下、どんなことを今考え、感じているのか、そして今できることは何なのか、頭の中を整理しながら、記せればと思います。まずは現状の整理からはじめて、そこから本論に移していきます。最後まで読んでいただけると嬉しいです。

「要請」をめぐる現状整理

 新型コロナウイルスが蔓延し、世の中のありようが激変して1年ほど経ちました。年内には状況は好転するのではないか?という淡い期待を当時は持っていたものですが、事態はなかなか好転せず、政府や行政は都市部を中心に非常事態宣言を出すことで、ウイルスの蔓延をおさえこもうとしています。そして、行政からの「要請」も、徐々に範囲が変化してきています。

 1日20万円という金額で大型百貨店に休業を「要請」したり、大型書店の休業を「要請」したり、遊園地やアミューズメント施設などに「無観客での開催」を「要請」するなどなど、SNSでも話題になっています。

 夜間の外出をおさえたいという意図で、商業施設に夜間の消灯を「要請」する、コンビニには、路上飲みの原因となる酒類の夜間販売の自粛を「要請」すると都知事が会見で発表し、こちらも「まるで灯火管制・禁酒法だ」とSNSで話題になっています。

 色々な意見もあれど、これらの「要請」に対して「科学的根拠はあるのか」と憤る人たちが多いのは、個人的には、もっともなことだと思います。

 実際に、飲食店中心に夜間休業(今回の緊急事態宣言では酒類の提供自粛)を「強く要請」されている飲食店チェーンからは「営業妨害である」と東京都に対して訴訟を起こす例も出てきています。

 グローバルダイニング社の記者会見の内容を拝見したのですが、飲食店に規制の対象をしぼり施策を展開する根拠は現状存在しない、根拠がないまま時短命令をするのは営業妨害である、という、非常に冷静で客観的な論旨のメッセージが弁護士から発信されていました。一言でいうなら「飲食店の営業を制限をする合理的な理由が見当たらない以上、営業妨害でしかない」という主張です。

「極端な二者択一」が生み出すコミュニティの分断

 状況説明が長くなりましたが、ここで「何がコミュニティを殺すのか」というテーマに話を徐々に戻していきます。

 コミュニティを殺すもの。それはコミュニティの「分断」です。対立構造を集団につくり出し、他の集団への敵意や、強いネガティブバイアスを植え付けることで、自動的・反射的に他の集団を否定するマインドを醸成すると、相互理解や対話を軸としたコミュニティは瓦解していきます。

 今の日本の状況をみるに、私は「コミュニティの分断」への危機感を感じています。

 SNSで多くの人たちが「非合理」と唱える「要請」の数々に話を戻します。これらの「要請」で設定されているのは、いわば「極端な二者択一」です。相手によっては非合理ともとられかねない選択肢を用意して「やるか/やらないか」の単純な選択を迫っているわけです。

 例えば、アミューズメントパークに「無観客で開催するように」という「要請」をするのは、日本語的にちょっと解釈に悩むところはあるものの「休業して下さい」という指導と同義だということが分かります。人によっては合理的だと解釈する方もいるでしょうし、人によっては「そもそも日本語の意味が分からない」と拒否反応を示す方もいるかもしれません。

 いずれにせよ、要請するサイドに立ってみると、そこに従って、休んでくれればそれでよし、ですよね。一方で、従わない場合どうなるか。「要請を拒否した」という事実を元に、対象を「指導」する理由になりえます。

 具体的な事例をあげると、先ほど取り上げた、都に営業妨害だと提訴を起こしたグローバルダイニングのニュースがあります。この訴訟は、「要請」に従わず、公に批判する発信をしていた同社の複数店舗に対して、批判を出した直後に「時短営業命令」を都が出したことがトリガーになって踏み切られたものです。

 この記事でも指摘されていますが「要請」を拒否する相手に対し「命令」することは、無意識にせよ「従わないとこうなるのだ」というメッセージを発信しているわけで、いわば世の中への「見せしめ」ともとられかねない行動です。

 また、このような「命令」や「指導」を行うことで、「要請」に従う側の人の抱えるフラストレーションを煽ることにもつながります。「自分たちは(渋々でも)従っているのに、なぜ従わないのだ?おかしいだろう」という気持ちが、従っている側の人たちの中で沸き起こるわけです。

 グローバルダイニングの事案に関して思うところについては本記事の趣旨とはズレるので割愛しますが、ここで指摘しておきたいのは「要請」に従う人たちは指示に従うことに少なからずフラストレーションを感じており、そこに従わない人たちに対するマイナス感情を強化しやすいという事実です。

 そこがエスカレートすると生まれるのが「相互監視」の状態です。極端な選択肢を一種の踏み絵にすることで、その「要請」に従う人の中で「従わない人が敵である」という「仮想敵認定」が無意識に始まります。その結果として、コミュニティの中で「従うもの」が「従わないもの」を異分子とみなす「分断」が生まれるのです。

コミュニティの源泉は「自分で考える力」

 ここで話を再びコミュニティに戻します。コミュニティを形成する上で大事な源泉。それは「自分で考える力」です。

 コミュニティづくりにおいては、自分が何を成し遂げたいのか、軸を持って語れる状態をつくり、その軸を元に他者とのつながりを形成していきます。自分が成し遂げたいことと、他者が成し遂げたいことを重ね合わせ、お互いに成長できるような行動を「共創」していくことが「コミュニティ思考」においてはとても大事になります。

 逆に、いくら他者と協調した行動をとっていても、自分自身の意思が他者に決められている状態のままでは、コミュニティはうまく形成されません。コミュニティにおいて重要な「対等な関係性」が生まれづらいからです。

 私はこう考え、あなたはこう考える。一種の対立を建設的に重ねながら共通点を見出し、そして相違点を尊重し、相互に利益のある状態をデザインしていくことが大事です。あなたの言うことに私は従う、という関係性は、相手を上、自身を下とみるヒエラルキーを生み出し、この対等さを生み出せなくなるのです。

 そのような「建設的な対立」を生み出すのに重要なのが「心理的安全性」です。自分はこう考える、という意見を表明しても自分の身が脅かされない状態が「心理的安全性の高い状態」と定義されます。

 一方で、先ほど述べた「相互監視」の状態は、心理的安全性の存在そのものを否定、あるいは破壊するものです。意見の表明は認めず、従うものは受け入れ、従わないものは自動的に排除するという論理がそこにはあります。この「従わないものは排除」するという姿勢は、考えた末の結果ではなく、「自分が従っているルールに反している」相手に対して反射的に発生します。つまり「思考」した結果の判断ではなく「思考停止」ゆえの反射の産物なのです。

 ともあれ、社会全体の心理的安全性を担保することが、多様性ある社会づくりにはとても大事です。そのためには、生まれつつある分断を乗り越えていく必要があります。そのために何ができるのか。1人1人が自分なりに考えて、考えた結果として分断を修復するような行動を選んでいくことが、大事になってくるのではないでしょうか。

「分断」を超え、コミュニティの力を活かすヒント

 書いてきた通り、混沌とした世の中は時として「思考停止」を促してくることもあります。だからこそ、注意を払いながら、自分自身が社会を「分断」にいざなうスイッチにならないように、行動を決めていくことが今、必要なのです。

 
自著の「コミュニティづくりの教科書」でも書きましたが、変化の激しい時代に大事なのは、ビジョンを掲げ「対等な仲間とのつながり」を軸にしながら、仲間のためにも行動していくことです。そのためには、自分自身で、考えること、「思考を止めないこと」が肝になります。

 私の周辺で見えつつある希望の種も存在します。いくつかの大企業で、新しい事業づくりや、ユーザーとのコミュニケーションづくりのお手伝いをしていますが、そこに今の時代に誠実に向き合うヒントがあるのです。

 これらの大企業は、いわゆる「保守的」な企業が多いです。新しいことをやりたい中で、厳しいルールや世間の目があり、それを上手に表現できない。そんな状況の中で、皆様と一緒に何ができるかを考えて、できることから変えていくこと、小さな挑戦を一緒に繰り返して伴走していくことが、これらの企業と関わる上での私のミッションです。

 それぞれのプロジェクトは大きくないかもしれませんが、大事なのは「考えながら行動すること」の継続だと示しながら取り組んでいます。組織が、所属する人々の自分で考える力を尊重し、しっかりと育て、コミュニティとして機能するようになると、変化にも対応でき、社会と建設的な関係性を創り出すことができるようになります。社会の一員として今の企業に求められる「コミュニティに対する感性」を磨き、組織体をコミュニティ型に近づけていくこと。そのような信念で日々取り組んでいます。

 この考え方を社会全体にスライドさせるとどうでしょうか。まずは世の中で生まれたギャップ、すなわち「分断」を意識してとらえる必要があります。そして、その分断を修復する方法について考え、それぞれの持ち場で実行していくことが大事です。「分断」について意識し、分断している現状に対し考えながらアクションしていくことは、コミュニティの死を防ぐための処方箋になると同時に、特効薬にもなる可能性を秘めている。私はそのように考えています。

※「コミュニティ思考」の詳細については、拙著(藤田祐司氏と共著)をぜひご覧ください。


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