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「セルフケア」のサービスを買い続けることへの違和感と自己批判

この9月、子どもが2歳の誕生日を迎えました。4歳と2歳になる子どもが家にいて、無事に成長してくれていることを喜び安心したとともに、「毎日頑張ってるよなあ自分達」と、パートナーとねぎらいあって暮らしています。

保育園と幼稚園+託児サービスを駆使して共働き体制で仕事をしていると、朝はドタバタと送り出しをし、夕方は仕事を終えた瞬間に迎えに走るという生活になります。

そこからさらに晩御飯の準備、お風呂、片付け、寝かしつけと、怒涛のタスクが始まっていきます。そこまでくるともうくたくたで、でも仕事は残っているという状態になります。

そんななかで仕事を少し片付けるために、しばらくぼーっと放心状態になってからちょっとづつ手をつけ始め、片づけて、あー終わったと思ってNetflixなんかみちゃったりして、結果寝不足になったりする。

そんな毎日を疲弊して過ごす中で、どうにか自分を回復させるために、瞑想のアプリを入れたり、朝ヨガをする習慣を作ったり、アミノ酸のサプリを飲んだりしてセルフケアを心がける毎日です。

そんななかでもどうしようもなく落ち込むときもあり、メンタルケアにも気を配る必要があるでしょう。どうにも心が上を向かず、イライラが止まらない日々が続いてしまったら、心療内科にもう少しカジュアルに通って調子を整えたり、あるいはメンタルケアのアプリを導入するのもありなのかなぁ?と考えています。

しかし、こうした自分の毎日を振り返りながら思うことは「ケアとは、自分1人でするものなのか?」ということです。

セルフケアのサービスがこれだけ充実していると、ふと恐ろしく感じることがあります。こうしてケアのサービスを購入し、自分をケアするようになっていくと、他人へのケアを怠るようになってしまうのではないかという感情が湧いてきます。

ケアとは、そもそも「したりされたり」するものでしょう。そしてそのケアを施し合う関係性は、ただの労わりあいだけでなく、楽しみの分かち合いもあるはずです。

ここでふと、経験をふりかえりながら「共愉」というキーワードを思い出します。佐伯胖氏のこの論文の最後に書かれている言葉です。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshikikagaku/48/2/48_38/_pdf

最後は、こう結論づけられています。

二人称的かかわりというのは、
①対象を情動的存在(よろこんだり、笑ったり、悲しんだり、怒ったりする存在)とみなす(いわゆる「知的」側面だけを見るのではなく、情感あふれる姿を見る)。
②対象はかかわる人のかかわりに「応える」存在(つまり、こちらの関わり方次第で、全く違った反応を示す存在)とみなす。
③対象は基本的にたのしい、うれしい、面白い「応答的関係」を求めている存在とみなす。

これらはまさに、人間を共愉的(コンヴィヴィあるな存在)とみなし、共愉的関係をつくろうとしているーこれが、人がなぜ「学ぶ」かについての真の答えであり、「学ぶ」とは他者と共愉的関係を生み出すことだ、ということになる。

『そもそも「学ぶ」とはどういうことか:正統的周辺参加論の前と後』 佐伯胖

この論文は学びについて書かれたものですが、佐伯先生は別の本で『子どもがケアする世界をケアする』というタイトルの本を書かれています。つまり、学ぶこととケアすること、そして楽しみ合うことは深いところでつながっているのです。

また、セルフケアへの批判として「ケア資源の配分」の問題もあります。セルフケアができる人はそれらのサプリやアプリを購入するだけの経済的資源、使いこなして自分を回復させる知的資源を持ち合わせており、逆にそれらの資源がない人は排斥されていく社会構造が生まれている、というのが主な批判でしょう。

こうした「セルフケアできる人たち」がもっている「すでに配分されている資源」を、「セルフケアができない人たち」に再配分するかたちを、現代の資本主義社会の中でいかに構築するかが課題と言えます。

しかし、ぼく自身はこうした「セルフケアができる人」としてどうにかこうにかアプリやサプリを使って自分をケアして回復して仕事や育児に臨んでいます。そうしないと、けっこうきついところもあるからです。他方で、多様な他者と共愉的なケアをしあう、もしくはケア資源を再配分するような実践を並行することも重要だと考えています。

セルフケアと共愉的ケアのダブルスタンダードな生き方を、ひとまず続けながら。

#日経COMEMO #NIKKEI

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