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建築ふたたび:「社会性」について考えた

先日、こちらのイベントに参加してきました。

いまはもはや全く関係なく、女性向けスマホサービスのスタートアップを経営しておりますが、実は以前は建築に携わっておりました。

今回のイベントの主催が建築家の坂牛卓さんで、15年くらい前、坂牛先生が東大で教鞭をとっていた時、坂本一成さんのご自宅に伺ってレポートを書くという超贅沢な授業があり、そこで坂本一成選に選ばれたことがあります。両先生にも会いたかったし、妹島和世さんなど他の登壇者も豪華!なイベントで、200名近い人が集まり熱気がすごく、議論の中身も大変濃かったです。


建築ってやっぱり面白い

建築やアートの世界から離れたあと、ビジネスでの新規事業、そしてスタートアップを10数年やってきましたが、最近「アート思考」関連で書いたり登壇したりする機会が増え、ふたたびアートへの興味を強くしています。

これはどこかで、効率性やハック、スケールを主眼として肥大化していくビジネスのあり方に漠然とした違和感をもっているからで、なにか文化とかもっと人間の根っこみたいなところをなおざりにしているのではという危機感があるのだと思います。そういうことを考えながら、久々に建築のシンポジウムで建築家の言葉を聞き、とても面白かった。

建築は、アートであり、(実用的・工学的にも)デザインであり、そしてビジネスでもあり、とても境界事例的です。他のアートも勿論お金を抜きには語れないのですが、「使用されること」について考えたり経済活動に巻き込まれる度合いではやはり建築が一番ではないか。

そういう意味で、アートービジネスのboaderやcross-boaderを考える上でも建築ってすごく面白いなと改めて思いました。


建築の「社会性」

イベントのテーマである「社会性」は(特に近代以降の)建築を語る際、抜きには語れないテーマの一つです。建築はその大小を問わず実際に社会の中に設置され、そこで利用され、変化していきます。(以下建築を知らない人にも分かるざっくりした書き方をしていますので、本職の方からすると異論があるかもしれません。予めお詫びします)


建築に対しての「社会性」の要請は、自律性ー他律性の振り子の中で変化してきたところがあります。「自律性ー他律性」というのは、近代以降、アートの価値論においてもイデオロギー的な問題でしたが、超ざっくり言うと

「アートはなにかのために役に立つとかでなく、独立してそれ自身のためだけにそれ自身の理由付けによってつくられるべきである」

というのが近代に生まれた「自律性」重視の立場で、一方、それへのカウンターとして

「モダニズムが自律性を喧伝し世界から切り離したために芸術は窮屈なものになってしまった。環境や観客など他との関係も重視すべきだ」

というのが「他律性」です。

建築でいうと、ある建物を設計する時、建つ場所や地域、社会に対してなんらか意義があるものを建てるべきだ、というのが社会性の要請です。建築は他の芸術に比べ(ときには税金を含め)大きな予算がかかりますから、社会性が求められる度合いも大きいところがあります。(絵や音楽と違って個人で好きにつくるのが難しい)


「批評性」としての社会性

モダニズムの「自律性」の反動として、建築における「社会性」を求める傾向は強まりました。建築は社会的意義を持つべきである。これは逆に言えば社会的意義をもたなければ建築ではない、ということになります。

自身も建築に携わっていましたが、建物はどれもが「建築」と呼ばれるわけではありません。あるいは建築設計に携わる人の誰もが「建築家」と呼ばれるわけではありません。(これはある種イノベイター論と似ているところもあります。経営者の全てが「起業家」と呼ばれるわけではありません)。その「建築」の根拠の真ん中に「社会性」が置かれたことになります。


坂本先生はしかし、この種の「行き過ぎた社会性」の要請に疑問を感じ、いわゆる「実用的な社会性」と区別して、「批評性としての社会性」を追い求めてきた、と言います。

いまプリツカー賞で話題の磯崎新氏はかつて、「住宅は建築ではない」と言いましたが、モニュメンタルなものや大規模建造物など(直接的な)社会的影響力をもつ建築物だけが「建築」でしょうか。そういう「いわゆる社会性」でなく、たとえ個人の住宅であっても、その「建築性」によって社会への新しい建築のあり方を問うことはできる、というのが「批評性としての社会性」という立場だと理解しています。

アートにおいても、価値評価にあたり「実用的社会性」が言われることがあります。社会的・倫理的に意義があるか、とかアートは心理療法に役立つから有用だ、とかとか。でも僕はそういう字義通りの「実用的社会性」とは別に、時代の空気の中で、新しい価値を結晶化し、提起するという批評的(クリティカル)な社会性があり、それはアートにおいてとても大事なものだと思っています。

アートに実用的・直接的な効果を求めすぎるのは、アートの価値を見損なうことがあります。デュシャンの「泉」も、ウォーホルの「ブリロボックス」も、物理的には便器であり、ただの箱です。会田誠氏の作品をリテラル(字義通り)にエロとして批判することはやはりなにか文化的次元がずれていると思うのです。


タンジブルなものを「建てる」というパラダイムからのシフト

「批評性としての社会性」という坂本先生の話、「地域性」に寄り添う妹島さんの建築、ヨコミゾマコトさんの「文化的地域遺伝子」そして青井さんの「中道態(内態)としての創作と3つの社会性」、どの話も共感するところ多く、また刺激も受けたのですが、

一方で思ったのは、「建築は相変わらず建てることを前提として社会を捉えているのだなあ」ということでした。建築は、たしかに社会の中に物理的に置かれ、社会を触発し、影響を及ぼします。しかし、社会性socialをいう時、いま物理世界だけではなく、インターネットの中やヴァーチャルな世界での社会性の比重が大きくなってきています。建築はそういった社会性を考慮しなくてよいのでしょうか?

青井さんのお話に「3つの社会性」と言う話がありました。建築は、建築家が一人能動的につくるのではなく他者との協働とその力学系の変化で生み出されるもので、設計時から社会性を内在せざるをえず(=第1の社会性)、さらに完成された後は建築家の手を離れて利用者によって生きられていき別の社会性に開かれる(=第2の社会性)。しかしこのような他者を前提とした社会性があったとしても、建築家は建築をある時点で区切り「完成」させるのであり、この行為こそが彼を社会において「建築家」たらしめる(=第3の社会性)のではないか。

建築家とは、ある時点で建築を区切り完成させる人である。

これに対し、インターネットの世界は「完成」する感覚はうすく、継続的に変化していきます。その社会で育った、gen-Zやデジタルネイティブのモードは、その前の世代と比べはるかに継続的変化を前提としたモードになってきている。(テキストでも写真でも「再編集」へのハードルは小さくなっています)

UGCではコンテンツが民主化され、たとえ創業者であってもコントロールが難しい(ザッカーバーグはfacebookの「作者」でしょうか?)。ブロックチェーンではさらにプラットフォーマーという「神」を排除した分散型の社会が目指されています。また「所有から共有へ」というモードの変化もあります。こういう社会のモードの変化の中で、建築は何をしていくのか。その役割やモードはどう変わっていくのか。シンポジウムの場でも、若い世代の建築家は「署名による完成」をあまり重視しない方向にシフトしつつある、という話がありましたが、そもそも「建てる」すら前提としない社会との関係性の設計、「社会性」の議論の中に、そういう議論がもう少しあってもよかった。あの場にSAMPOとかがいたらどういう議論が展開されたのだろう


また一方で、「建築家」のように、社会性や社会との関係に向き合い、(ときには批評的に)責任をもって何かを生み出す、という役割を自覚的に引き受けている人はITの世界にはあまり多くない気もします。民主化や分散化というイデオロギーを傘に、ハックやスケールを目指し実用性の中で肥大化していくところにはちょっと危うさがあるなーとおもっていて、社会性について問い続ける建築家の議論はビジネスの人にももっと聞いてほしいなとおもいました。

(もしかしたら噛み合わないかもしれませんが)、こういう場にネットの人、ビジネスの人も足を運んで自問したりクロスボーダー的に議論する場が増えたらいいな、と思っています。


↓もアートとビジネスをクロスさせる試みをやっていますのでよかったらどうぞ





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