原爆ドーム

広島に原爆が落とされた日に「人のつながり」の意味を考える

今日は、広島に原爆が落とされた日です。※ちなみに、サムネの写真は僕が撮った原爆ドームの写真です。


本日の朝日新聞の天声人語にとっても素敵なお話が書かれていました。

いいお話なので、たくさんの方に読んでいただきたいので全文ご紹介します。

広島原爆資料館は一度訪れたことがあります。あそこに展示されていた歴史の証拠の数々がこうして、たった一人の長岡省吾さんという方の行動によって成り立っていたという事実は、日本人だけではなく、世界中の人たちに知ってもらいたいし、語り継ぐべきだと思います。

周りから変人扱いされようとも、たった一人でやっていようとも、思いを込めてやり続けることが大事です。

自分で行動せず、うわついた借り物の飾り立てた言葉で、人をだまし、動かし、自己の利益だけ抜こうとする奴より数億倍立派。

「大きなことは決して一人ではできない。だからチームで動け」とか偉そうなこと(何かの受け売りだと思うが)を言う御仁がいます。それ自体は間違いではないですが、大きなことをやるためだけに人は生きているのではありません。たった一人でも、やる意義を本人が感じたことは、事の大小など関係ないのです。

にも関わらず、「誰かと協調して行動できない人間はたいした人間ではない」みたいな偏見に満ちた、昨今のチーム論的なものは個人的には甚だ疑問なのです。チームでやれる人もいれば、一人でやりたい人もいていい。なんでもかんでも集団でやることが貴重なことではありません。

長岡さんはたった一人で行動しました。そして、そのたった一人の行動の継続は、やがて周りの人たちをも動かしていきます。そして、何十年後も経た現代においても、資料館を訪れる人々の心を動かし続けています。

素敵なことじゃないですか。

これこそが、時間を超えた「人のつながり」でもあるのです。人とのつながりは、現在進行形とは限らない。未来の見ず知らずの人ともつながることができるのです。


僕は、一貫して「人のつながり」の重要性を言ってきました。それは、集団に所属することではなく、誰かと結婚することではなく、いっも一緒にいる仲間を見つけることではありません。

長岡さんがつながったの人たちというのは、あの日の朝、一瞬で消滅してしまった10万人を超える広島の人たちとのつながりだったんだろうと思います。

つながりとは、そういう形でもあるんです。


そんな中、こんな記事も見ました。

要約すると、こういう主旨です。

「つながり」というのは、自分が求め、かつ他者に求められるからこそ、成り立つのである。しかし、ロスジェネ世代はそもそも社会に捨てられた存在である。もはや、彼らは、つながりを作ろうとしていないし、つながりに期待をしていない。社会とはつながれないし、つながれないという経験知を積み重ねて来たのである。よって、彼らには金を渡せ。お金というのは、つながりを持たない個人が他人と平等に権利を行使できる数少ない手段である。

ということです。

なんとも寂しい思考だと思います。


もちろん、生きるのに窮するほど金がない状態は論外です。金がなくてもいいんだ、なんてことは言いません。しかし、金さえあれば、つながりなんていらないのだ、と言い始めた時点で、人間は終わりなんだと思います。

物理的に身体は生きていても、もう心は死んだようなものです。

「人とのつながり」を諦めた時が、人としての死なんでしょう。

何度も言ってますが、「人のつながり」とは友達を作ることではないし、どこかの群れに所属することでもないし、誰かと行動を共にすることではないです。誰かとつながることはすなわち「生きる」ことを意味します。


金さえあれば、その金で食事をし、住むところを見つけ、生きていくことはできる。誰も助けも借りずに、一人でやれる。それこそ自立じゃないかというかもしれませんが、全く逆です。

自立というのは自分の足だけで立つことを言うのではありません。私たちは、日々生きていく上で、見ず知らずの誰かの力を借りています。今日食べた食事の材料だって誰かが作ってくれたものです

誰にも頼らず自分の足だけで立つことを自立だと思っている人多いんだけど、誰もが誰かによりかかり誰かに支えられて生きています。逆に、知らずに誰かを支えたりもしています。

もし、本当に「私は自分の足だけで立っている」などと本当に信じている人がいるとするなら、それは自立ではなく、それこそが、孤立なのです。

長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。