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辺境にいる同志たちへ 〜「アート思考」と「境界人」

お疲れさまです。uni'que若宮です。

今日はちょっと「境界人」について書きたいと思います。

そしてこの記事はとくに、そんな「境界人」のみなさんに向けたお手紙でありエールでもあります。


マジョリティの中のマイノリティ

昨年ジェンダーギャップについて発信したところ想像以上に反響をいただき、それをきっかけに、それまでなかった場での登壇や講演の機会もいただくようになりました。

たとえば↓こちらのイベント。フランス大使館さんが主催のイベントだったのですが、

登壇に関して、担当者の方からこんなメールを頂戴しました。

女性活躍推進の討論会は、これまでの数多く開催して参りましたが、ともすればガールズトークになりがちな会に若宮様のご登壇を賜れますことを、心より有り難く存じております。


このメールにもあるように、ビジネス系イベントの多くは登壇者が男性ばかりであるのに対し、ジェンダーやダイバーシティに関するテーマの場では男女比がなぜか逆転し、女性が多数派なことが多くあります。

実際この一年でジェンダーに関する取材を何度も受けましたが、記者や編集者の方は100%女性でしたし、企業のダイバーシティ&インクルージョン推進者もほぼ女性ばかりです。


で、そういう場でお話をした時に、

マジョリティの側からこうして声をあげてもらえるのはありがたい」

と言われることがあります。

この言葉を聞くと、僕の活動が少しでも役に立てていることをうれしく感じながらも、実は少しだけ複雑な気持ちになります。


それは「マジョリティ」という言葉にまつわる疎外感です。といっても、その場に男性が少ないという単純な理由ではありません。僕はジェンダーのことを共に考えていく同志だと思っているのですが、女性の側からあなたは「男性というマジョリティの人」です、と改めて言われているような、やっぱりそこに少し線を引かれているような、ちょっと寂しい気持ちがするのです。


もちろん、この言葉を発した方にそうした線引きの意図がないことは重々承知していますし、そうした発言に不満を言いたいのではありません。純粋に「お礼」として言ってくださっていると感じうれしいし、実態として僕が「男性」というジェンダーを有していることで、社会制度的な「多数派」や「強者」の特権の恩恵を受けていることも事実であり、そうした「マジョリティ」だからこそできるアクションもあります。

しかし僕自身は時々、むしろすごく「マイノリティ」だと感じることがあるのです。


「マージナル」の葛藤

そもそもこうした取材をいただくのも(残念なことに現状では)「ジェンダーに関心をもつ男性が希少だから」です。そうした意味で僕は「マジョリティ」に所属はしていても、やはりとても「マイノリティ」的なのです。


男性という「マジョリティ」には属性としては入っているけれども、その「マジョリティ」とはちがう行動をとるので「マジョリティ」と同一ではない。しかし一方で、「マイノリティ」である女性とも同化はできない、というジレンマがあり、そこに孤独感があるのです。


僕はこういう時、「境界人」という言葉を思い出します。

社会学の術語。文化を異にする複数の集団(または社会)に属し、その異質な二つ以上の文化と集団生活の影響を同時的に受けながら、そのいずれにも完全には所属しきることのできない者。各集団、各文化のいわば境界に位置している人間。境界人、限界人、周辺人などとも訳す。

そして、「境界人」には

心の内部で複数の価値、規範、集団所属感の葛藤(かっとう)を経験していることが多く、それだけ動揺しやすく、首尾一貫性をもった人間としては生きにくい。

という特徴があると言います。これはさきほど述べたジェンダーに関する僕の心境をとても的確に記してくれている気がします。

「境界人」は「異質な二つ以上の文化と集団生活の影響を同時的に受けながら、そのいずれにも完全には所属しきることのできない」ために、葛藤を抱えています。


実際、たとえばジェンダーのことに関して発信をしていると、男性から「女性の肩を持つのはチヤホヤされたいとかモテたいからだろ」と「裏切り者」のように石を投げられることもあります。一方で、(男性側からの石に比べれば圧倒的に少ないですが)女性の側からも「結局はマジョリティの意見」という批判を受けることもあります。

「アート思考」についても同様なことがあります。ビジネスとアートの境界で活動をしていると、ビジネス界からは「クリエイター気取り」と言われてうさんくさがられたり、アート界からは「ビジネスの人がアート界に入ってくるな」とあからさまに拒絶されることもあります。


もちろん、いくら「マイノリティ」といっても、たとえば在日外国人やLGBTQのようにより日常生活に影響のある方たちの生きづらさの比ではありませんし、誰に言われたわけでもなく好きでやっているのでまったく自業自得ですから、そのことに不平を言ったり、被害者ぶって同情を買いたいわけでもありません。

ただ、こんな僕でもそうした両側からの疎外に、時々ちょっとさびしくなることもあるのです(笑)


「マージナル」の創造性

また、先日『マクルーハン・プレイ』というメディア論の巨匠・マーシャル・マクルーハンに関する書籍を読んだのですが、

その本に引用されていたマクルーハンの言葉にも同じような感覚を感じました。

私は探偵である。私は探索 (プローブ)する。私は視点をもたない。私は一箇所にとどまらない。われわれの文化においては、一つの固定した場所に止まっている限りは歓迎すべき者と見なされる。だがいったん周辺に動き出し境界を横切り始めると、不届き者と見なされ、非難の格好の的となる。探検家はまったく気まぐれである。彼はいったい何時すごい発見するのかを知らない。また探検家に一貫性を適用しようとしても無意味である。もし首尾一貫していたいなら、彼は家でじっとしていることだろう。
ジャック・エリュールは、プロパガンダは「対話」が止むとき始まる、と言っている。
私はメディアに問い返し、探検という冒険に旅立つ。
私は説明しない
私は探検する

「境界人」は「不届き者」と見なされ、「非難の格好の的」となるのです。

しかし一方で、マクルーハンは「境界を横切り始める」人を「探検家」と呼び、「すごい発見」をする可能性も示唆しています。

先程のコトバンクの「境界人」の解説の最後の段落には、次のような文章があります。

こうした境界的な生活体験が、既存の文化のなかからは生まれにくい独自なものの見方、価値観、感受性をはぐくみ、優れて創造的な意義をもつことがある。事実、多くの芸術家、思想家、学者などがマージナル・マン的境遇から輩出している。


「アート思考」と「境界人」

こうしたあり方は「アート思考」にも共通するものです。よく勘違いされがちですが、「アート思考」はいわゆるビジネス・アイディアの発想法ではありません。そうではなく、当然とされてきる「常識」や「固定観念」を取り払い、自分ならではの角度から物事を見ようとし続ける、動的な姿勢です。


こちらのインタビュー記事では紙幅の都合でだいぶ割愛されていますが、上記のような「境界人」的あり方と「アート思考」に親近性があることは伝わるのではと思います。以下に今回の文脈に沿って少し文意を補足します。

若宮氏「働き方が変わって、いびつなアート思考の生き方の人が出てくるだろう。だが、誰もがアート思考でなくてもいい。大企業の型を守りながらも、型どおりにならず違和感を感じて何かをやるという人が出てきてもいい」

「アート思考」とは、芸術家や起業家のようになにか目立つ行動を起こす人ばかりのものではありません。「大企業」のような「マジョリティ」の中にあっても、そこで小さくても変化を起こそうとするなら「マジョリティの中のマイノリティ」となり、「マージナル」であることができるのです。


マクルーハンは、

大企業においては、アイディアを出す部署は危険なウイルスを隔離する研究所のようなものだ

といっています。日経インタビュー中で

「企業にとってアート思考人材は1割くらいの比率でいいのかもしれない。アート思考は予想外のことをもたらしてくれるかもしれないが、あまり多いと組織が成り立たなくなる恐れもある」

といっているのは、これに似た感覚です。

「アート思考」は「境界人」的です。既存の価値観に縛られず、自分らしくあろうとすることはマージナルであろうとすることであり、マイノリティであろうとすることです。


辺境にいる同志たちへ

あるいはそのあり方を舞踏家・土方巽の言葉を借りて「飼いならされず、はぐれている」と言い変えることもできるかもしれません。

「子供というのは、欲望がいっぱいあるし、感情だけをささえに生きているために、できるだけはぐれたものにであおうとする。ところが大きくなるにしたがって、自分のはぐれているものをおろそかにして、他人との約束ごとに自分を順応させる。それではぐれていない、と過信してしまう。飼いならされてしまうわけですね」(土方異「暗黒の舞台を踊る魔神」)


僕はこの記事をいま、社会の色々なところにいる「境界人」たちに向けて書いています。

「境界人」は「すごい発見」をしたり社会を変える可能性もありかもしれませんが、葛藤を抱えた弱い存在でもあります。そしてそれぞれが「はぐれて」境界的な辺境にいるため、孤独な状態にあることも多いと思います。

それぞれ遠い辺境にいるために「境界人」同士が出会うことは多くはないかもしれません。しかしあなたは一人ではありません。それぞれの辺境に、ジャンルを超え、境界を超えて活動するさまざまな「境界人」の同志がいます。そのことを心強く思ってほしいのです。


「境界人」のみなさん、あなたが今いる場所にあなたを理解してくれる人は決して多くないでしょう。だからこそ思い出してほしいのです。それぞれ別々にはぐれている「境界人」だからこそ出会わないだけで、同志は沢山いて今もそれぞれにはぐれているのです。

時々つらくなったら「境界人」の同志のことを思い出し、「境界人」同士で語り合ってみるのもよいでしょう。「境界人」同士だからこそ、まったくちがう世界の話が聞けて、でもとても共鳴したり勇気づけられるかもしれません。

そして少しだけ元気になったら、笑顔で手を振ってまたそれぞれに「はぐれ」ていこうではありませんか。

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