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欧州文化像のアップデイトを! 「ルールメーカー」と「クラシック音楽」の間にあるもの

日本の人から欧州はとても遠い存在(のよう)です。日本にとっての外国はまず米国か中国でしょう。そのリアル感からすると彼方遠くにウラル山脈があり、欧州はその向こうにある。

しかし、たまに顔を出します。「気候変動対策やEV推進なんてEUの戦略に過ぎない話題」といった発言に代表される、意図的に小賢しいものと見なす反発ですね。ルールメーカーとしての欧州の動向に関する以下の記事も、「たまに」の一つでしょう。

この記事には、下記の文章があります。

欧州各国の政府や企業、スポーツ界は伝統的にルールをつくることが大好きだ。何をするにも、まずはルールや規格を自分たちで決め、それを世界中に広げていこうとする。
(中略)
要するに、他国が進めにくい、あるいは進めたくない脱炭素を進めることが、欧州の比較優位を高める原動力となる。それを熟知しているからこそ、欧州は「デジュールスタンダード戦略」に全力を傾け、自らの勝ちパターンに世界を誘導していこうとしているわけである。

まるで競争のためにルール戦略が最初の発想にあるような解釈に読めます。ぼくが長い間、欧州内で仕事をしてきて感じるのは、自分たち欧州のための新しいコンセプトつくりに熱心だ、との点です(だからこそ、ぼくは欧州を生活の拠点としているわけですが)。

新しいコンセプトを作ってやっていくしかなかったのもあるでしょう。何せ、それなりの力と存在感がある国が数多いなかでお互いが上手くいく道を探らないといけない環境条件があるのです。当然ながら、かつて世界の運命を左右した経験値が内在されているのは否めません。だが、それで21世紀が生きられるとも思っていません。

で、その新しいコンセプトのうちにいくつかを結果的に、戦略として欧州外への適用を図るわけです。およそ4象限チャートを描いて「ここが空いているね!ここを世界に攻めよう!」が初めにあるわけでもない。この思考の順序は欧州の文化を理解するにあたり、基本的なポイントになります。

さて、もう一つの記事。音楽家の水野蒼生さんのクラシック音楽分野での活動に関するものです。

楽譜などから作曲家の意図を読み取り、演奏する――。再現芸術であるクラシック音楽は、過去との対話を深めていく。だが水野は「過去との対話は重要だが、社会の営みや価値観、技術などは日々変化する。過去だけでなく、現在の視点からクラシック音楽の新しい可能性を見つけることもできるのではないか」と指摘する。

極めて真っ当な向き合い方です。ルールメーカーの記事よりも、クラシック音楽を生んだ欧州文化に関する造詣が感じられます。どうも、これらの2つの記事にある欧州理解の乖離が気になります。

ということで、今回は欧州の文化について想うことを書いていきます。一方でおどろおどろしく捉えられがち。他方で過小評価しやすい。殊にビジネスパーソンの間で、その傾向が目につきます。

往々にして過大評価するから敵対視につながる過小評価に陥るので、どうしても適度なポジションへの感度を高めるのが必須科目になっています。水野さんのように適度なスタンスが保てる若い人もでてきている今、ルールメイキングを考える人も、こうした音楽家の言葉や行動から学べることがあるでしょう。

ハイカルチャーはまだ君臨しているのだろうか?

まずハイカルチャー。これが曲者なんです。欧州のハイソサエティにおいてハイカルチャーがお高くとまっている。それが欧州外で評価される要因であり(例えば、ラグジュアリー領域)、ハイカルチャーの相対的地位低下が欧州の力の低下と準えます。

ぼくが1990年に欧州に住み始めた当時から、クラシック音楽が観光の一プログラムに成り下がったと言われていました。都会のどこの名門劇場も法人が良い席を年間を通じておさえ、他の席は外国人観光客が座る。だから一般受けするプログラムを優先し、挑戦的なものは低く抑えると。最近の動向は知りませんが、「欧州は耳が肥えた年齢のいった常連客が厳しく演奏を評価する」との定評は既に崩れつつありました。

(欧州の観客の高い質は、日本において「クラシック音楽は大学生までが熱心に聞き、社会人になると音楽から離れる。成熟した客が少ない」との当時の嘆きとの対比で引用されたものです。しかし、上記の記事にあるグラフをみると、今や日本でも若い人はクラシック音楽のコンサートに行かず、聴衆の年齢層があがっているのが皮肉にも問題視されているのですね)。

それであっても、クラシック音楽、ファインアート、人文学などのハイカルチャーが厳然と力を放っているのが欧州文化であると、そうですね、今から10数年くらいまでは明言できたと思います。サブカルチャーとは一線を画していました。しかし、直接関係するわけでもないのですが、日曜日に教会に通う人が激減したあたりから、あるいはファインアートとサブカルチャーが結託するようになった頃から、急速に変化してきました。

結局、ハイソサエティとハイカルチャーがお互いに意図的に離れ離れになり、その二つが「関係なきごとくに振る舞う」ようになってくると、ほんとうに2つの間の距離が離れてしまったとの面もあるでしょう。

ただ、それでも日本との比較をするなら、(日本におけるハイカルチャーとは何か?との議論はあるにせよ)ハイカルチャーなるものがまだある地位を得ているのも確かです。「厳然と力を放っていたのが、かろうじて力を放っている」が風景の変化の描写になります。

新しいコンセプトや抽象的表現はハイカルチャーの産物か?

欧州委員会の提示する方針は理念型であるとか抽象的であるとよく評されます。エリート性が露出し過ぎだ、とも。欧州における高級官僚とは各国の官僚ではなくEU官僚であると言われるのも、その範疇の話です。

上述のルールメーカーとしての欧州への批判は、多分にこのあたりのイメージとも紐づいているのではないかとも思います。「エラソーに!」と思われるのですね。

ただ、ここで一つ。良く言われる点ですが、西洋言語において抽象的なレベルで考えることは、日常生活で使う言葉を使っていることが少なくないです。

したがって日本の人が想像するほどには、抽象的な概念が「雲の上の人」の言葉でもないわけです。しかも、名詞であっても動詞起源が多いこともあり、抽象概念に幅や動きがあるのです。EU理念=抽象概念=どっしりした難しい漢語、こう思っていると的がはずれます。

仮にあなたが漢語で挑めば、「いやあ、そんなに鉄仮面でもないし・・・」と言われるに決まっています! 笑。抽象的概念がハイカルチャーと繋がらないとは言わないけど、ハイカルチャーと同一視しない方がよいです。

欧州の考え方はがっしりとした構造体か?

欧州の考え方は科学的合理性が高いとか、石造りのような性格が文化にあるとか、それこそ自然と闘うとか、虫の鳴き声に情緒を感じないとか・・・いやはや、いろいろな理解が日本では出回ってきました。ある一面、そのような事実や傾向があったとしても、それらはあくまでも部分であり、それがすべてではありません。

極めて雑多な現象が並行してあったどれかを、誰かがピックアップして拡大したに過ぎないのがリアルな姿です。または社会的に偉い人はそうだったかもしれないけど、多くの市民にはそんな恩恵なかったよ、というのもありますね。

中世の頃、庶民が石造りの家を容易に作れるわけじゃないでしょう?石を運ぶには大勢の人数を要するわけですから、地位の高い人じゃないと住めなかったのです。だから石の文化と木の文化の比較は上の人たちの何らかの素養の比較であり、それで文化圏の比較として決定版のように表現して良いか?となります。

田舎の森のなかに住んでいる欧州人は、虫の鳴き声を情緒なものとして聞きます。それは都会のビルのなかで生活している人たちが、たまに田舎に行く程度であれば煩く聞くかもしれません。環境、想い出、それらによって虫の鳴き声の受け取り方が違うのです。なにも虫の鳴き声と情緒をリンクさせるのが日本の人の専売特許でもありません。

だいたい、ポストモダンが散々叫ばれ、それまでの考え方への反省や批判が噴出したにも関わらず、「欧州人は合理的思考を重んじる」といった定番の発言をしている人が、日本にはまだまだたくさんいます。欧州にいる本人たちは、「道理は通そうと思うけどね、合理だけでは前に進めないよね」と言っているにもかかわらず、です。

欧州の人は確かに建築物を設計するような考えをするところはありますが、それが相応しいところでそうするのです。または、その構造物の利点を主張する際の説得の仕方で合理性が強調される。そこに強い印象が残るケースもあるでしょう。そのあたりを勘違いしないように気をつけるのが賢明です。

欧州と日本の文化には同じところがたくさんある?

このように書いてくると、「欧州の文化も日本とあまり違わないと言いたいわけ?」と思う人もいるかもしれません。いや、そうじゃないです。2つは明らかに違います。人間やっぱり一緒だね、との常套句にまとめるつもりはまったくありません。

日本で語られている欧州像が実際とかなりずれていると言いたいだけです。この150年以上のつきあいのなかで日本に蓄積してきた欧州像が、いろいろと使えなくなっているのです。あるものは使え、あるものは使えない。この仕訳が雑なままでとどまっている。「たまにウラル山脈の向こうに顔を出す」程度に必要になるだけなら、まあ、それでもいいかと思っているのでしょう。

その結果、日本の人からするととても損をしやすいというか、後手にまわりやすいことに、ぼくは危惧をしています。

で、その「たまに」が、実はかなり辛辣な玉を投げてくるものだから、避けるのも、真正面から受け取るのもできないことが多いのです。それもおっぴらに「世界へ」と大きな声で言うのではなく、「欧州のなかではこう行きますよ。もし欧州と関わりたいなら、そのやり方に従ってくださいね」とそろりとくるものだから、「欧州とは縁がないから」と思っている人の足元がぐらつくわけです。それで「たかがEUの戦略に過ぎない」と腐るわけです。

欧州像のアップデイトをしておかないと、差異がつくる隙間がだんだんと拡大して思わぬ水漏れが生じます。更新、おすすめします。

写真©Ken Anzai



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