成果主義が残した負の遺産

 今世紀初めに流行した「成果主義」という言葉は、かなりブラックなイメージだけを残して私たちの頭の中から消え去ろうとしている。しかし、いま逆の意味で成果主義が残した「負の遺産」に注目すべきではないだろうか。

 周知のようにいまから20年近く前、日本を代表するような大企業から中堅企業までが、いわゆる成果主義を競うようにして取り入れた。ところが導入をしてみたものの、社員からの不満や不公平感が予想外に大きく、また期待したような効果も得られなかった。そのため早期に実質上撤回したり、大幅に見直したりする企業が続出し、成果主義は悪いイメージだけを残して表舞台から去って行った。

 私が思うに成果主義が「失敗」に終わったのは、成果を問うという理念そのものではなく、成果主義を取り入れるための条件が整っていなかったところに原因がある。たとえば、配属が人事部によって一方的に決められ、仕事も会社や上司から与えられる。また仕事の分担は不明確であり、担当する仕事の重要性や難易度なども分析・評価されていない。そのようななかで「成果」だけを評価し、処遇に差をつければ当然ながら不満がでる。しかも、分担が明確でなければ成果の評価そのものが困難なので、評価者の主観や裁量が入りやすい。日本企業における成果主義の導入は、例えるなら「木に竹を接ぐ」ようなものだったのである。

 成果主義の見直しをめぐる議論のなかではしばしば、「成果だけでなくプロセスもみてほしい」とか、「成果があがらなくても、どれだけがんばったかを評価してやるべきだ」といった意見が述べられた。たしかにそれらは私たちの常識に訴え、もっともな「正論」のように聞こえる。

 しかし皮肉なもので、その「正論」がいま、「働き方改革」の障害となり、働き過ぎやストレスの原因になっているケースが少なくないようだ。かりに「成果」だけが問われるなら、仕事を効率的に片づけて定時に帰ればよい。また、しっかりと成果をあげていたら間違いなく高い評価を得られるはずである。女性の昇進にとって障害になる「ガラスの天井」もできないだろう。

 いっぽう「成果だけでなくプロセスも大事だ」とか、「がんばりも評価すべきだ」となると、そうはいかない。なおここで評価される「プロセス」は本来、成果につながるプロセスであるべきだが、個人の成果そのものが必ずしも明確に定義できないので、態度やがんばりといったレベルでプロセスを評価してしまう。結局、社員は成果もがんばりも上司にアピールしなければならなくなったのである。

 それは個人を疲弊させるだけでない。「がんばり」を評価してもらおうとすれば、効率的に仕事をこなすより、むしろ無駄な仕事を、無駄なやり方で続けていた方がトクになる場合がある。それが企業の生産性を落とすことはいうまでもない。

 このように成果主義は、その仕組みや運用がまずかったために失敗に終わっただけでなく、人びとにの心の中に一種のトラウマのように染みついてしまった。その反動として「がんばり主義」(一種の精神主義)が復活し、それがいま日本企業、日本社会の活力を奪い、また日本人の仕事に対する満足度や幸福感、エンゲージメントの足を引っ張っているとしたら、成果主義の罪はとてつもなく大きいといわねばならない。



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「個人」の視点から組織、社会などについて感じたことを記しています。

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ohtahajime

同志社大学教授。専門は組織論。個人を重視する組織・社会づくりが研究テーマ。 新刊『「承認欲求」の呪縛』(新潮新書、2019/2)のほか、『「ネコ型」人間の時代』(平凡社新書)、『なぜ日本企業は勝てなくなったのか』(新潮選書)、『個人尊重の組織論』(中公新書)など著書は30冊余。

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