デザインについて”も”語ろう。
COMEMOでは欧州と文化について書くと決めて、この夏からはじめましたが、昨日、noteのなかに入ったら、なんとなくデザインやアート方面のことも書きたいなあとふと思いました。この場の雰囲気というかインターフェースの威力は大したものです。
上の写真は先週撮ったもので、ミラノのトリエンナーレ美術館で開催されているカスティリオーニの展覧会に展示されていたトンカチのコレクションです。カスティリオーニというデザイナーは、日常にある一見なんでもないものを集め、それらと「遊びながら」デザイン活動していた人です。
トンカチも用途によって本当、沢山ありますよね。材質と形状、それぞれ異なります。カスティリオーニ自身も、決してそれらの用途をしっかり知ったうえで買ったものだけでなく、よく分からないけど買ってみた、というのがあります。それらを手に取りながら、「こうやって使ったものじゃないか?」なんて考えるのが、自分のコンセプトを得るのに役立ったのでしょう。
さて、これまでデザインについて本やブログなどにずいぶんと書いてきましたが、最近、アートとビジネスの関係が話題になることが多く、そうなると今更ながらにして、アート VS デザインという対立関係で語るような文章が目につき、こういうのを読むと「おい、おい、何やっているの?」というちょっと残念な気持ちになります。「そんなこと言っている場合じゃないだろう」って。
デザインとは何か?というのは千差万別ですが、少なくても3つのことは確かかな、と思います。1つは「デザインとはモノやコトに意味を与えるもの」というものです。2つ目は「デザインとはアイデアからアウトプットまでのプロセスを可視化する活動」と言えるでしょう。カスティリオーニがトンカチを手にして、ああだこうだと考えているシーンから、そのプロセスに入ってきますね。最後の3つ目は「審美性や美意識を必須項目としていること」でしょうね。
デザインについてかなりアカデミックにというかサイエンスとしてというか、まあ、そのかための人が硬い言葉で定義をはじめたのが1960年代とされていますが、以上の3点は共通していたと言えるでしょう。だが、デザインを広い意味で使い始めるなかで、つまりは地域社会の住民参加での街づくりであるとか、大きな組織での経営戦略を論議するとか、そういうレベルになったとき、3つのうちの2つがドロップしやすくなった、ということは言えます。2つとは、「意味を与える」と「審美性や美意識」です。可視化だけがデザインの強みというおさえ方をされる傾向があったわけですね。
その可視化が問題解決という1つのテーマに効きやすい、ということもあり、それはそれで重要なのですが、他の2つのアイテムを落としてきたのは致命傷です。ただ、これにも言い分があって、多くの人の合意をとるにあたって「審美性や美意識を必須にしていたら、デザインは使い勝手の悪いものになる」ということになります。圧倒的に使い勝手がよい、というのがデザインが経営なんかでも「敬意をもって迎えいられる」条件になったわけですね。
そこで問題解決ばかりしている分には、それはそれで良かったのですが、新しいビジョンをつくるとか、そういう領域に入ってくると、意味と審美性や美意識は欠かせないです。意味と審美性や美意識が関係するって?と思うかもしれませんが、これ、関係するのです。以前、別のところに書いたブルネッロ・クチネッリの「風景政策」やリトアニアの旧ソ連からの独立後の新しい社会つくりの苦労をみれば、想像がつくでしょう。
デザインが極めてスリムになって多くのところで使われるようになったために落とした部分を、アートが補完する、いやアーティストがそういう動きをしているよりも、アートに近いビジネス経験のある人がビジネスへの適用を提案している、というのがリアルな状況だと思うのですよね。
これは第三者的にみれば、デザインマネジメントに関わる側の失敗とも見えるのですが、世界で共通したデザイン戦略があるわけでもなく、時代の巡りあわせでこうなったとしか言えないです。だから、繰り返しますが、アートとデザインの2つを対立的な関係に仕立て上げるのは、あまり賢明なこととは思えない、ということになります。
それよりも、アート、デザイン、ビジネス、テクノロジーなどを3者あるいは4者で論じた方がよっぽど全体像が見えやすくなります。
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