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排除は多様性の敵か? 〜トランプ氏のアカウント凍結に考える「排除」の是非

お疲れさまです。uni'que若宮です。

米選挙の結果を認めないトランプ氏が扇動し、米議事堂にて暴動が起きる、という前代未聞の事態にさまざまな波紋が広がっています。

これを問題視したTwitterが1/8にトランプ氏のアカウントを停止しました。


この結果、トランプ氏支持者はコンテンツの監視がゆるいSNS・Parlerへと流れ始め、Parler内では副大統領の処刑を求める投稿がされるなど過激化の様相を呈し始めます。これを危険視し、Amazonが1/9にParlerのクラウドサーバ利用を停止、

Apple、GoogleもParlerアプリの配信を停止する、という異例の事態になっています。

これに対し、トランプ支持者や保守派は「言論弾圧だ!」という激しく批判、さらにはGAFAがトランプを排除しているのが産業界ぐるみで選挙不正をしてたことの証拠だ!その隠蔽だ!」と陰謀論をぶち上げるなどヒートアップしてきています。

果たしてTwitterやプラットフォーマーによるトランプ氏の排除は弾圧なのでしょうか?こうした「介入」を一切せず、放置することが「中立」ということなのでしょうか?自身も投稿型のサービスやプラットフォーム型の事業の運営経験のある身として改めて考えてみたいと思います。


Twitterによる排除は「弾圧」か?

結論から言うと、今回の停止は「弾圧」ではまったくないと考えます。

なぜかというと、ルールと倫理に則ったものだからです。Twitter社は好き嫌いや政治的な意図を理由にトランプ氏のアカウントを凍結したわけではありません

「暴力」に与しないということは、Twitter社が定めているポリシーであり、

暴力行為を働くという脅迫や、個人または特定の集団に向けた身体への重大な危険、死亡、病気を望む行為は、Twitterポリシーの違反にあたります。
https://help.twitter.com/ja/rules-and-policies/violent-threats-glorification

トランプ氏であろうが他の人だろうが、Twitter自身でさえ、これに抵触すれば停止になるのがポリシーです。「法」というのはそのようなもので、「恣意性によらずに公平に関係者を裁く」ことこそがその機能だからです。

ですので、今回の件を「言論弾圧」という人は問題点をすり替えているか誤解していると思います。Twitterはトランプ氏の「言論」や「思想」を排除しているのではなく、あくまでその「暴力」を理由に排除しているからです。

すると次に、「暴力」が問題だとしてもそれを理由に「アカウントを停止」するのは人格の排除であり弾圧だ!という方がいるかもしれません。要は暴力が問題なら暴力的ツイートのみを消し、人を消す必要はないだろう、という理屈です。泥棒をしたからといってその人を排除するのではなく、罪を憎んで人を憎まず、であるべきだろう、と。

これには根本的には僕は同意します。しかし、「実行上は」今回の措置は仕方ないとおもっています。トランプ氏の場合、①これまでの度重なる違反の実績と、②その影響力の大きさからみて、凍結の判断は致し方ない、と思われるからです。暴力ツイートだけ罰し、排除すればいい、というのは理屈としてはわかりますが、サービサーの観点から言うとそれを一つ一つ事後的に監視するというのは負担が大きすぎますし、かつ違反から削除までのタイムラグはどうしても出てしまい、それがトランプ氏の影響力で増幅されると被害は相当に大きくなることが想定されます。これをアカウントを停止せず事後的に対処するのはサービサーとしてリスクが高すぎます。

日本にも「プロバイダ責任制限法」(サービス内で起こった犯罪や問題について提供者の責任は制限される)というのがありますが、こうした法があるのも「サービサーがそこでなされるユーザーの行為のすべてを監視し責任を持つことは(実行上)不可能である」ということが認められているからで、「暴力のみを排除せよ」は正論としてはわかりますが、サービサーからすると暴力を排除するために「出禁にせざるを得ない」と思います。


Parlerの排除は妥当か?

Twitterのアカウント停止に続いておこった、AmazonやGoogleによるParlerの排除についてはもう少し問題は複雑です。これは特定の行為や人物の排除のみならず、「場」自体の排除であり、それに(いまや世界の寡占的成功者である)GAFAが軒並み関わったことで、一部のプレイヤーが意図的に特定の思想を弾圧しようとしている!それを許すのか!という、陰謀論めいた議論へのすり替えがされています。

Parlerはトランプ支持者だけが使うサービスではないですし、暴力的でない発言も問題のないユーザーも多くいるのに、それまで消すのが許されるのか!というのは一理ある批判です。

僕自身はこの排除については「賛成」というほどではありません。むしろこれが平時なら、Parler自体を排除するのは横暴だとも思います。たとえば、クラブで薬物問題や暴力事件が起こったからといってクラブという存在自体を悪と決めつけ、排除しするのは行き過ぎているでしょう。

しかし今回に関しては、「議事堂での暴動」はかなりの非常事態であり、「暴力」の被害の拡大が想定されるため、緊急避難的には致し方ないところでしょう

さきほどのクラブの例で言えば、犯罪や被害が一度出た場合、クラブ側もその被害が拡大しないよう対策を講じる必要があります。以降同様の被害が出ないように事件が起こったらしばらく営業停止(これは見せしめというより改善のための停止でなければなりませんが)は被害拡大を防ぐために必要です。

コロナ禍でも被害拡大を防ぐために飲食店の営業制限がされていますが、それはもちろん飲食店が悪いからではなく、被害の拡大を防ぐため制限せざるを得ない、というのに似ています。


Parlerの責任

営業制限によって飲食店も大変な思いをしていますが、Parlerもそういった意味では「とばっちり」というか、Parler自体が「暴力の賛美」をしているわけではないのに停止されてしまったというのはサービサー視点からみると、ある意味では一番かわいそうかもしれません。

そもそも中立な「場」を提供していただけなのに、なぜそんな罰を受けなければいけないのでしょう。Parlerにそこまでの責任があるのでしょうか?

たしかにParler上で暴力的なことがおこったとしても、第一義的に悪いのはParlerではなく、そのユーザーです。「場」の運営者は意図していない事が起こってしまっただけで、ある種被害者といえなくもありません。

しかし、「場」を提供する以上、いかに中立であったとしても、そこで起こる被害を「増大」してしまう責任はあります。そしてこの「被害の増大」への責任は威力の大きさに比例する倫理的な責任です。テクノロジーは多かれ少なかれこうした責任を負っていて、被害を拡大させないように努力をすることは「技術」に織り込まれるべき責任だと思います。(原子力が技術として「中立」であってもその威力で被害を拡大することへの責任はあり、少なくとも「悪用されないように努力する」義務がある)

ですから、Parlerは中立的ではあっても、被害を止めるために一時停止を受け入れ、その対策をする必要があるでしょう。


「多様性」のためにはなにも排除してはいけないのか?

さて、以上述べたように、今回の排除は「言論弾圧」などではなく、一貫して「暴力」の排除であり、これからの被害を最小化するための対策として理解すべきものです。

逆にいうと、Twitter社がトランプ氏をもし「暴力」や倫理的な問題がないのに自社の利害のために「排除」するなら、それは「弾圧」であり「横暴」のそしりを免れないでしょう。(Apple社のフォートナイト排除は幾分そうした側面を持ちますし、賛同者のみ優遇し反対者は排除する、というような某党のやり方は「横暴」であり「弾圧」です)


ところで、こういう時のリベラル批判として、「いつも多様性とか言ってるのに自分が認めたくない人は排除するのか!」という批判があります。

これも今回と同じ整理で考えてみるとよくわかるのですが、「思想の排除」と「暴力の排除」はちがう次元の問題です。

なぜなら「多様性」のために「暴力」を排除するべきなのは、「暴力」が「多様性」を脅かすからです。暴力によって他者をコントロールしようとしたり、他者を排除しようとする者(独裁者やナチスのように)がいると、それを野放しにすること自体が多様性を失わせてしまうのです。暴力や権力はマイノリティやその小さな声を押しつぶし、結果としてその場を暴力的独裁へと収斂させてしまうでしょう。

また、モンスターカスタマーもそうですが、一部の者の暴力であってもそれに対応するためには膨大なコストがかかります。そしてそのコストは善良なる一般ユーザーが負担することになるのです。サービサーのリソースは有限なのでそれを一部の人が占有することは望ましくありません。


このように、「多様性への脅威」の排除は、多様性を減らすのではなく、多様性を守り増やすためには必要だと言えます。


今回のトランプ氏の排除は、徹底して「暴力」の排除、そして「暴力による多様性への脅威」の排除だと理解するべきで、「言論弾圧」や「特定の思想の排除」ではないのであって、これを一緒くたにしたりすり替えたりする議論に与みしないことが大事だと思います。

言論であれ表現であれ思想であれ、「自由」は、他者を侵害しない範囲においてのみ認められるものなのです。


ただし、こうした「脅威の排除」を人に対して行うことは一時的なものであるべきで、脅威がなくなれば解除し社会全体として居場所を奪うようなことがあってはいけません。犯罪であれ反社であれ、見えるところから切り離すだけでは見えなくなるだけで「地下化」したり、かえって更生を難しくします。「排除」が固定的になりすぎると「弾圧」へと変質する恐れがあることもまた注意しなければなりません。

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