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フリーランスに大切なことはカールが全部教えてくれた〜マルクスに学ぶ最強の生存戦略〜

見直されるカール・マルクスの思想

カール・マルクスのマルクス経済学。大昔の経済学でしかもソビエト連邦等東側諸国の崩壊とともに終わった経済学と思っている人も多いと思います。私も最近までそうでした。

ただ、リーマンショック以降、失業者が増え格差が広がるアメリカでミレニアル世代やZ世代で社会主義に共感が広がっています。
ミレニアル世代やZ世代で社会主義に共感が広がっています。

ミレニアル世代の70%、ジェネレーションZの64%は社会主義的な政策を訴える候補者に「多分投票するだろう」または「必ず投票するだろう」との考えを持っている。


派遣切りや雇い止め等の問題が深刻になるに連れ資本主義が失業者と労働者の搾取を生む構造を持っていることを最初に指摘したマルクスが再評価されています。

最近も思想史家、政治学者の白井聡さんの「武器としての「資本論」

や、斎藤幸平さんの「人新世の「資本論」」

などが刊行され、過去の経済思想ではなく、現在の格差、気候変動、深刻な社会課題を解くヒントとしてマルクスの思想が見直されています。

マルクス時代から変わらないプロレタリアート搾取の構造

マルクスの思想から、フリーランスの生存戦略を考えてみます。

最初、極々簡単にマルクスの資本論のおさらいから。言葉はとっつきにくい以外はそれほど難しくはありません。

マルクスは労働を「必要労働」と「剰余労働」に分けて整理しています。
必要労働とは、労働者が毎日生きて働く為の労働=労働の給料分
剰余労働とは、それ以上働いて「剰余価値」を生む労働=資本家利潤

資本家はできるだけ投下資本の回収に剰余価値を最大にしようと考えます。
給与そのままで労働時間を伸ばす方法=「絶対的剰余価値」の最大化、もしくは機械の導入で全体の労働時間を変えずに必要労働を減らす方法=「相対的剰余価値」の最大化です。
「絶対的剰余価値」の残業にも限度があるので(とはいえ当時のイギリスの工場では15-16時間労働があたりまえだったようですが)機械の導入によって生産性を高めて、「相対的剰余価値」を高める、すなわち必要な労働者を徐々に減らそうとします。そして過剰な労働人口を生み出します。マルクスはこれを「産業予備軍」を呼びましたが、要はいつでも仕事が欲しい状態に置かれた失業者です。

本来、資本家と労働者は対等です。但し、資本家には多くの「産業予備軍」がいる一方で労働者は工場での職がないと「自由な無一文」です。
おのずと力関係から、労働者は再生産のための必要労働(寝て起きて再び工場に行くためだけの)分だけの給料で限界まで働き、資本家に搾取されます。

農村の共同体を離れ、都会に出て労働者として職を失った「自由な無一文」の失業者の生活は悲惨です。組合もなく、最低労働時間も最低賃金も、労災も傷害保険もないなか、機械に巻き込まれ怪我でもすると即クビで街を放り出されます。あとはホームレスとして質の悪いジンを飲んだくれるだけです。

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プロレタリアート(無産者階級)が溢れて荒んだロンドンのイースト・エンド「ジン横丁」

実は、21世紀現在の一部のフリーランスもマルクスの解説する150年前のロンドンの状況に当てはまるところがあると思います。

例えばライドシェアのUberでは登録ドライバーは契約上Uberと対等な個人事業主です。当初は自分の愛車に人を乗せて見知らぬ旅人との会話を楽しみ好きな時間に働き臨時収入を得るというイメージでしたが、結局ドライバーは大量に増えた一方、独占寡占状態のプラットフォーマーから運賃は引き下げられ不安定な収入と過酷な労働環境にあえいでいます。

客を求めて動き回る大量のドライバーは「産業予備軍」

労働条件を徐々に改悪するプラットフォーマーは「資本家」そのものです。

また日本でも数年前「信頼性なき医療メディア」と問題になったDeNAのキュレーションメディアWelqの問題も似た問題です。経営陣にコンプライアンス違反の意図はなく多くの人々に必要な健康医療情報の提供を、と始まったのだと思います。ただ現場がKPI管理による収益の最大化を追求した結果、記事の8〜9割をクラウドソーシングで集めた外部ライターに1字1円にも満たない?原稿料で大量に記事を書かせSEOで検索上位に上げトラヒックを稼ぐというモデルが加速していきました。外部ライターも稼ぐには短時間で大量に書くしか無かったと聞きます。フリーランスとプラットフォームの力関係性も問題を大きくした一因ではなかったでしょうか。

フリーランス(生産者)vs クライアント企業(消費者)の需要供給曲線


そうした個人と企業、フリーランスとプラットフォームの力関係を古典派経済学のミクロ経済学の最初の授業で習う需要供給曲線で確認します。

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供給が増えれば価格は下がり、減れば価格は上がります。野菜が豊作で価格が値崩れを起こしていいる状況です。

ギグ・エコノミーにおける個人事業主であるフリーランスと企業との関係は、トマトや果物のような日用品(コモディティ)市場ではないはずなので、企業(発注側)とフリーランサー(受注側)との間には本来毎回個別の需要供給曲線が発生します。

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個人事業主が、いくらの条件でどの程度仕事を受けるか、自分自身の追加労働の供給曲線と、企業がいくらの条件でどれくらい働いてほしいかの需要曲線の交点で仕事は成立するはずです。

しかし、個人事業主と企業との関係が、
①比較的コモディティ化しやすい労働で(例えば、車の運転、1文字いくらの原稿書き、等)
②受注先企業が寡占か独占かの巨大プラットフォームに依存している場合、(例えばUber)

においては、一気に労働者の供給曲線は右下に下がり、価格は下落します。

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最初は空いた時間に愛車に人を乗せて楽しみながらお金ももらえると喜んでいたはずが、気づくと朝から晩まで運転しているのに全く稼げないといった先のUberドライバーの状態に陥るのです。

そして、価格が下がった分の収益は消費者余剰として全てプラットフォーマーに渡ります。(この場合の消費者は需要サイドのプラットフォーマー)

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形式的包摂と実質的包摂

マルクスはこうした労働者が徐々に資本家に取り込まれていく過程を、包摂(inclusion)と呼んでいました。

「包摂(ほうせつ)」とはわかりにくい訳語ですが、最近は「誰ひとり取り残されない」というソーシャルインクルージョンという言葉で日本でも聞く言葉です。マルクスは、資本論に「取り込まれてしまう」という悪い意味で「包摂」と表現しています。

マルクスはその包摂を「形式的包摂」と「実質的包摂」の2段階に分けて説明しています。


「形式的包摂」
白井さんは著書の中で、商人が農村に来て農閑期に藁細工を作ることを進める例をあげています。農家は副業として藁細工という商品を売って収入を得るので「商品経済」という資本制に「包摂」されますが、何時間、どれくらい藁細工を作るかは、農家の自由であり、例えば気乗りしないと一切生産しないことも許されます。ヒマで自分もドライブしたい時間にUberで人を乗せる。趣味で作ったアクセサリーを、ネットで時々売る、などもこれに当たります。
自分が好きな時間に労働を行い収入を得る。作り出すものの意義、目的の全体像が理解でき、作業も自分の裁量で行い、いつでも止める事ができる。基本的な取引条件以外は指図されない。そういう状態です。


「実質的包摂」
先の例でいうと、都市に藁細工工場ができ、農村を離れてそこで働くような状況です。具体的な働き方も全て資本側が決め自由度は全くありません。工場の作業場に赴いて、時間管理され指示通りに分業作業を行う。全体像は見えず労働条件などについても交渉の余地はない状態です。

Welqの先程の事例では、「医療情報については専門家の監修が必要ではないか」といった全体をみた判断も外部ライターにはできません。マニュアルに沿って完全分業で、検索上位に並ぶ記事を大量生産するのみです。


また、個人が自由にブログで生活と思っていても、Googleの検索アルゴリズムに依存し「実質的に包摂」されてしまった状況では、プラットフォームのアルゴリズム次第で収入が変動し安定的な収入は得られません。これも実質的に包摂されてしまってると言えます。

資本制とは「形式的包摂」にとどめて「為事」する

そういった時にに残酷な資本主義において、悲惨な現代のプロレタリアートに脱落しかねないフリーランスが生き延びるにはどうしたら良いでしょうか。

それにはマルクスの説く「形式的包摂」段階に資本制との関係を留めつつ、いかにその関係性を自分が必要とする収入水準まで複数構築できるかが鍵になると思います。

「形式的包摂」での資本制との関係、というと難しい言葉になりますが、要するに

・宝くじあたったら仕事止めますかと聞かれても、多分止めないな、と思える自分が好きで人生の目的意識を持てる仕事
・自分にしかできないもしくはあまりたくさんの人にはできない仕事で価格などの条件をこちらが決められる仕事

を「複数」どれだけ持つかということになると思います。

因みに私は森鴎外に習って、これらの仕事を「為事」と呼んでいます。


マイクロアントレプレナーの新しい需給曲線

ここで主流派経済学から離れて、経済学者でない私が勝手に理想のフリーランスの需給曲線を考えます。主流派経済学では、人は合理的な経済人(ホモ・エコノミクス)として一つの人格として行動する前提ですが、複雑な社会に生きITを駆使したリモートワークが可能な私達は仕事上複数のキャラクターを持ちえます。個人事業主であっても、複数のアバターキャラクターの社員を抱えている派遣会社のようなイメージで仕事ができます。

競合が少なく供給量(Q)が少ない市場を探り当てれば、価格決定権を持て価格(報酬)は上昇します。もしくは、価格以外にもそのアバターキャラクターにとって良い条件(やりがい、宣言効果等)を得られるかもしれません。

A社の価格での収入に満足していた場合、B社の仕事を受けるか受けないかについても「形式的包摂」で別のアバターとして納得の行く健全なお付き合いができるのであれば、B社、C社と広げていけば良いのです。

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自分にとって良い複数の市場を創造し、そこでやりたい仕事をやりたい条件の「為事」が追加であれば受け、そうでないなら思い切って断る。

それぞれのアバターの好調不調、またその市場にも浮き沈みがあると思います。複数の市場において複数のアバターで仕事をすることで全体としては安定し精神衛生上も良い効果が見られます。

これを繰り返すうちに「実質的包摂」として資本制に取り込まれることなく複数の企業とも対等な関係で、持続可能なフリーランスの活動が継続できます。

私自身は、下請け構造に陥ってしまう一部のフリーランサーとの違いを込めて、大企業と対等に事業の提携関係を結べる個人事業主をマイクロアントレプレナーと呼んでいます。


「そんな風に簡単に行けば良いよ」という声が聞こえてきそうですが、実際に、働き手が価格決定権を持つことで条件を向上させる動きは出てきています。

一般的なギグワークでは仕事の内容や報酬を発注者が先に決めるが、「働き手が決めることで激しい価格競争に陥りにくくする」(南氏)狙いだ。こうした工夫もあり流通するサービスの単価は上昇傾向にあるといい、南氏は「プロの作曲家のような高付加価値のサービスを提供する利用者も増えている」と話す。


そもそも、個人事業主やフリーランサーは、労働集約的な仕事が多いはずで、自ずとこなせる仕事量(供給量)に限界はあるはずです。

誰にもできるギグワーカーとしてプラットフォーマーに搾取されるのではなく、自分がお金もらえなくてもやりたいとのめり込める事で、そのニッチにおけるオンリーワンの存在になり結果、お金もオンリーワンの条件でもらってしまう。カール・マルクスのアドバイスに従って、一社に依存しないクライアント企業との「形式的包摂」の軽やかな関係構築を目指す。

マルクスはその状態の「労働者」が初めて「必然の王国」から「自由の王国」へ移るとして予言めいた言葉を残しています。

”『自由の王国は、欠乏と外的有用性によって決定される労働力が止むときにのみ始まり』”(資本論)
”これに対して共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をも持たず、どこでも好きな部門で、自分の腕を磨く事ができるのであって、社会が生産全般を統制しているのである。だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝には狩猟を、昼に魚取りをを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に評論をすることが可能になり、しかもけっして猟師、漁夫、牧夫、評論家にならなくて良いのである”
(ドイツ・イデオロギー)

今でこそ、共産主義はおどろおどろしい独裁恐怖政治か無責任万年野党のイメージが付いていますが、カール・マルクスが理想とした共産主義は、一人ひとりが資本主義に縛られた「専門労働者」になる事なく、持てる様々な才能を自由に活かして生きていける社会をつくりたいという主張です。

プロレタリアートととして資本主義に隷属することなく、自由に働き自由に稼ぐ、それがカール・マルクスの教えてくれるフリーランスの正しいあり方だと思います。

追記: 

トップの写真は18歳の若きマルクスの肖像です。眼力のあるイケメンです。当時離れて暮らしていた許嫁から「私のかわいい野生イノシシちゃん」と呼ばれていたみたいです。(ジャック・アタリ「世界精神マルクス」)

マルクスは真っ直ぐで少し粗野な愛されキャラだったのかもしれませんね。

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