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一律10万円の給付に見る「大衆社会」から「個人化する社会」への幕開け

すったもんだ、いろいろありながら、所得制限なし10万円一律支給が決まりました。

どうすればもらえるのか?についてはこちらに書いてありますので、参考まで。

基本全員給付だとするならば、3月1日現在の日本の総人口(概算値)は約1億2595万人(総務省統計局の人口推計)。全員に10万円を配ると、総額は単純計算で約12兆6000億円となります。

一方的な支給ではなく、あくまで希望者のみ。受け取りを希望する人は、郵送された申請書に口座番号などを記入して市町村に返送する仕組みのようです。

これに対して、こんなことを言う人もいます。

希望すると卑しい?何を言ってるんでしょうか?

この10万円を政府は「生活支援」と定義しているが、僕はそうは思わない。卑しいとか卑しくないとかそんな次元の話ではない。

僕ら全員に一律支給されるこの10万円、合わせて総額12.6兆円とは、僕ら国民に与えられたwithコロナ社会における消費予算です。ひとりひとりがどう使うかが試されています。 もらわないなんて愚かだし、もらって貯金も最悪。消費するための予算ですから、当然貯金に回したって意味がない。

この10万円の消費とは、コロナとの戦いにおける我々国民一人一人が果たすべき役割でもあります。医療や小売り、交通インフラや物流従事者の方々など、この時期も働き続けてくれる人たちとは違う形で、私達は消費をして戦うのです。

与えられた10万円という武器で、あなたはどう戦いますか?

それをひとりひとりに問われているのです。

東京にお子さん一人暮らしさせている親御さんなら、お子さんに精のつく食べ物を送ってもいいでしょう。若者なら好きなブランドを潰さないよう服を買ってもいいんです。日々の生活に困窮している人は生活費にあてても構いません。何に使おうと自由です。個人の欲望的で利己的な消費でいいんです。「誰かのために使わなきゃ」なんて余計なことを考えなくていい。どう使おうと、消費をするという行動それだけで、結果として見知らぬ誰かを救うことになります。経済を回すとはそういうことです。

お金を使えば使うだけそれで救われる人がいる。救われる人がいればその人もまた消費できる。消費は悪だと考えがちですが、消費こそが皆を救うのだと思う。

但し、注意していただきたいのは、必ず出てくる「支給金詐欺」の輩。人懐っこい笑顔で近付いて「10万円をもっと増やせますよ」とか「10万円を恵まれない人達に寄付しませんか」とか訪問・電話してくる輩は、間違いなく詐欺なので相手にしないでください。


それともうひとつ。今回の全員一律10万円給付というのは、歴史的大きな転換点になると思います。

当初の政府案を覚えていますか?コロナの影響において収入が激減した世帯に対して30万円を給付するというものでした。

給付対象は「世帯」でした。もっというなら「世帯主」でもありました。たとえば共働きで、夫30万・妻20万の世帯収入50万の夫婦が、妻の収入がゼロになったとしても夫の収入が減少していないなら給付の対象にならない、という矛盾もありました。

何よりいつまで世帯なんていうものに囚われているのでしょう?

日本の世帯類型においては、もはや「夫婦と子世帯」というかつて標準世帯と呼ばれた世帯の数は激減しています。2015年時点の国勢調査でもっとも多いのが単身世帯です。

単身世帯が増え、家族といわれた「夫婦と子世帯」が減っています。まるで鏡のように対称的です。2040年には単身世帯4割に対し、家族世帯は2割になります。

中野さんとの共著話題0324

便宜上「単身世帯」と言っていますが、要するに「個人」です。拙著「超ソロ社会」から一貫して主張している「社会の個人化」がもう目の前に来ています。

今回の、一律10万円が、世帯ではなく個人に対して支払われるということの意義は、まさにこの「社会の個人化」の扉を開けたといっても過言ではないでしょう。

もちろん家族や世帯というものが完全に消滅することはありません。しかし、家族や世帯も、さらに拡大した職場や社会というコミュニティも、それを構成する最小単位は、決して集団としての「群」ではなく「個人」であるとしたターニングポイントになると考えます。

はからずも、コロナの感染というものが、個人による波及影響力の大きさを可視化したともいえます。たった1人の感染者の行動によって、多くの感染者を生んでしまったことも事実です。

しかし、逆に考えれば、個人の行動ひとつ(たとえば消費)で、その接続次第ではやがて大きな波を生み出すことも可能であることを示唆します。

近代において社会を動かしてきたのは、「群衆の力」でした。古くはフランス革命やベルリンの壁崩壊、ポーランドの大統領失脚などはそうした群衆の力が社会を変えてきたのは間違いありません。

しかし、これからは、群衆というカタチではなくとも、個人個人のそれぞれの行動の相互作用によって世の中が動いていく構造が生まれるでしょう。

夫であるとか妻であるとか、社長であるとか課長であるとか、どこどこの会社に所属しているとか、何の仕事をしているとか、そういう所属コミュニティにおける役割というのはあくまで一時的なものであり、その舞台における役名に過ぎない。

舞台上では、役名は重要ですが、舞台がかわれば役名も役割も変わります。「個人化する社会」とは、そうした多重役割の中で、個々人の行動が重視されていくことになります。

これは、ある意味、近代を牽引してきた「大衆」というものの消滅のはじまりかもしれません。「大衆」社会において、人間とは、代替え可能な記号のような存在として扱われてきました。平等の名の下に、みんなと同じではない人間を差別し、排除し、すべてを平均化する。「大衆」社会とはそうした標準性・統一性の社会です。何も考えず、みんなの後をついていけばそれでよかった時代です。「みんなの行動」が先にあり、個人はそこに「混ぜて」もらえればよかったのです。

「個人化する社会」では、「個人の行動」が先にあり、その結果として「みんなの行動」が形成されていきます。個々人がバラバラなようでいて、どこかで誰かと誰かがつながるきっかけになるかもしれません。

繰り返します。貯金では誰ともつながらないし、何の相互作用も生みません。ひとりひとりの10万円の消費行動が、言い換えれば、あなたの消費行動がいくつかの新しい舞台を生み、そこで活躍するキャストを生み、そのドラマで救われる人達を生むのです。そして、その救われる人とは、最初に行動したあなた自身に返ってくるかもしれないのです。

私たちは記号ではない。人間なのです。その力を発揮しましょう。

長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。