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『日の名残り』とセンシング

遅ればせながら『日の名残り』を読了しました。1956年の現代から、1920〜30年代の過去を回想する物語。2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロが、1989年に上梓し、ブッカー賞を受賞した小説です。一方、メタバース、ミラーワールド、デジタルツインなど様々なデジタル空間の活用が語られるようになりました。ようやく日常的な話題として、これらの言葉が登場するようになり、社会実装の現実味が増してきたと感じています。『日の名残り』の主人公の言葉が、今日のメタバースに重なるように思えました。

カンブリアサイクルの起点

実空間の情報をデジタル化する上で、センサーは欠かすことができない要素です。「みえる」「わかる」「できる」「かわる」のカンブリアサイクルの起点となるものも、センサーによる「みえる」です。

しかし、このセンサーは、なかなかの曲者です。センサーが、というよりも、センサーとセンシング対象である私たちとの関係性が曲者なのかもしれません。見られていると思うと意識してしまうからです。計測されているなと思うだけで、心拍数が変化する場合があります。カメラを向けられていると知っただけで、緊張しぎこちなくなったりします。

常態の記録のためには、センシングされていると意識されないことが重要です。

執事の立ち位置

『日の名残り』の「二日目の朝」の章で、主人公であるスティーブンスが、品格ある執事の立居振る舞いとしての「不在と偏在」について語る部分がありました。どこにでもいる、という状態。しかし、存在感を消していく。不在であるかのように透明で、かつどこにでもいる。

これを読んで、20年以上前に、能楽を普及する活動をしていた頃を思い出しました。当時、重要無形文化財の能楽師囃子方から、次のような言葉を聞いたことがあります。その方は、囃子方の中でも、笛方でした。「どこまで透明度を高められるかが大切。囃子方は環境であり、呼吸による違和感として目立つことのないよう、どこまでも透明になることを目指している」とのことでした。

これらは、センサーを考える上でも、本質的だと思います。センサーは環境に溶け込んでいく。センシングを意識せずに暮らせること。センシングの設計において、これはとても大切なことだと思います。

センシングにより構築される世界

ここでセンシングされたものによって構築されるミラーワールドは、実空間を実体とするならば、影のような存在かもしれません。しかし、この実体と影は、相互に影響を及ぼすものとなるでしょう。ミラーワールドは、時間や空間に対して介入し、シミュレートすることができます。この予測とシミュレートによって影が変化し、好ましいと判断された影の変化に実体が追いついていく、ということが考えられます。影が未来を描き、実体が影に追いついていく。

また、ショシャナ・ズボフ『監視資本主義』にあるように、人を天然資源としてとらえ、情報を取得し、予測する。さらには、行動を促し、踊らせることもできます。ミラーワールドの構築と運用の背後にある価値基準がそうしたものだとしたら。『日の名残り』の執事は、繰り返し、自分の執事としての立ち位置について語っていました。もし、センサーを起点とする情報の流れ「みえる」「わかる」「できる」「かわる」というサイクルを促すものとしてAIがあるとしたら、その役割と立ち位置を、改めてしっかりと見直す必要があるように思えます。

未来の社会実装

人を取り巻く環境にも、人と人との関係性にも、人の内部にも目が届く世界が間近に迫っています。目が届くということは、いずれ手が届くということです。手が届くということは、介入し、変化を及ぼすことができるようになる、ということだと思います。私たちは、どのような世界で生きていきたいと願うのか。未来の世界を思い描くことは、自分と関係のない世界の話ではなく、私たちひとりひとりが思いを馳せるものだと思います。その上で、願う世界につながる判断を、日々の生活の中でしていくこと。それが、未来を社会実装させることだと思います。

そのヒントになるかもしれない、カズオ・イシグロの新作『クララとお日さま』も、読んでみたいと思います。


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