「日本社会のアップデート」という物語に必要な「翻訳言語」としてのデジタル庁
0.結論としての前説
日本の政策で久しぶりに期待を持っているものがあります。これですね。
記事のタイトルがまた良い、「日本社会をアップデートする」、日経さん、なかなかあおって来ますね。僕はこういうの好きです。もしかしたらこの表現、誰かが言ったものを引用しているのかもしれませんが、なんにせよデジタル庁なので、アップデートなんていう、気の利いた表現を使ったんだろうなと。好きです。
政策に期待を持っているというのも変な言い方ですが、これには訳があります。それは、事前にデジタル庁に民間の優秀な人たちが登用されていたというのもあるのですが、今日こんな記事を読んだからです。
ところで、デジタル庁って知ってますか?
説明しますので、30秒だけお時間ください!
(上記記事より引用)
この書き振りに、希望を持ったからです。文章自体もとても平明で、偉ぶったところがありません。何より30秒で絶対に読みきれない文章量が続くのに、「30秒だけ」って言っちゃうとぼけたセンスがいい。そしてこの一文が印象的でした。
そこで、全省庁に「デジタル」という横串を通すことで、省庁起点でもなく、法律起点でもなく、システム起点でもない、国民起点のサービスを提供することを目指すのが、私たちデジタル庁です。
(上記記事より引用)
これまでも、おそらくは日本の省庁でも、いくら縦割り社会とはいえ、省庁やシステムを横断した活動を立ち上げようとした人たちはたくさんいたと思うんです。でもそこに欠落していたのは、実はこの発想、つまり「横串を通す」ための「翻訳言語」でした。デジタル庁は、「デジタル」という、まさにこれまでとは違った言語をシステムの基盤に据えて、日本のいいところを表に出していこうという発想で、日本をアップデートする気でいるのです。少なくとも、noteの文章からは、野心と気概を感じることができました。応援したい。
今日の結論はここまでです。ここから先は、文学研究者としての僕が考える、追記みたいなもんですので、お時間あったら読んで欲しいなと思ってます。
1. コミュニケーションを物語の流通として捉える目線
この日経comemoに書いた最初の文章でも書きましたが、僕は基本的には世界を「物語の集積」であると考えています。
人間は言語を手に入れた時点で、物語を語らないではいられない存在になりました。その言葉によって貫かれている人間の精神史は、時に歴史と言われたり、政治と言われたり、経済や文化や学問や芸術と呼ばれたりしますが、それらは単に「表札」が変わっただけで、全て「物語」です。
そしてその物語がそれぞれに機能しつつ社会を構成し、我々はその中で生きています。僕らはいわば、物語の海の中を泳いでいると言っていい。そしてその僕ら自身もまた、個々人の人生という物語を生きています。こうして多種多様な物語が流通している状況こそが、我々が「コミュニケーション」と呼んでいる事象です。僕は世界をこのように捉えて、文学作品を研究して来ました。
さて、ここで小説の話を少しさせてください。みなさん、例えば森鴎外の『阿部一族』を読んだことがあるでしょうか。あるいは、二葉亭四迷の『浮雲』。もっともっと遡って源氏物語や枕草子は?中学くらいの時に読まされましたよね。めっちゃ読みづらくなかったですか?同じ日本人が書いた物語なのに、すごく読みづらい。内容自体は千年経っても古びないほどの素晴らしく繊細な感性で綴られているのに、それが現代の我々にはひどく読みづらい理由は、僕らの使う言語が、当時使われていた言語と何もかも違うからです。言語は、その時代の価値観を全て反映したものが結実しています。何千年も前の社会で語られた物語とそれを作り出した言葉は、もはや外国語以上に遠いと言っても過言ではありません。
もちろん、偉大な作家であればあるほど、その作家が所属しているはずの「時代の制約」を飛び越えることができます。時には、国家の枠組みさえ超えでます。例えばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、1880年にロシアで発表された小説ですが、2021年の今を持っても最高の文学作品の一つです。
このようなことが起こり得るのは、本質的に作家とは「翻訳者」の側面を持っているからです。偉大な作家は、自分の物語を伝えるために何をすれば良いのか知っています。優れた「物語」を、適切に語る「言葉」が必要。そしてその言葉は、単に独りよがりのものではあってはいけない。それを読む人々へと「伝わる言葉」でないといけない。
こうして、作家は、自分の内側に存在している「物語」を、他者にわかる「言葉」へと、翻訳していきます。それはいわば「母国語」で描かれた自分の内側の物語を、他者というそれぞれ独自の「他国語」を操る人々へと届けるような作業です。つまり作家とは、物語の「創作者」であると同時に、内側で生成された物語を他者へと伝える「翻訳者」でもあるのです。そして偉大な作家は、遠い未来の違う国の人間にさえ、自分の「物語」を伝えうるような「翻訳」成し遂げる。これが小説というメディアにおける言語の使い方です。
2.「翻訳言語」は、「ことば」でさえ無い時もある
ところで、みなさん、この小説をご存知ですか?
与謝野晶子の「みだれ髪」ですね。読んだことありますか?ごめんなさい、僕も昔ちょっと読んだだけで、ほぼ中身忘れてます。でもね、今注目したいのは、このカバーの方なんです。なんか良くないですか?アニメカバー。こういうのがあまり好きじゃない方もいらっしゃるかもしれませんが、これすごく大事だと思うんです。
上で、偉大な小説家は時代を超える「翻訳」ができると書きました。でもそれも限界があります。どこかの時点で必ず、絶対、言葉は時間に捕まってしまう。まるでそう、「グレート・ギャッツビー」の最後のように、流れに逆らい、前へ前へと進もうとするのですが、運命は「言葉」を過去へ、時代の闇の中へと引き摺り込みます。この中で「平家物語」を原文で読める人がどれだけいることでしょう。偉大であることは分かっていても、僕らにはもう手が届かないところに行ってしまった物語。
でも、物語のカバーが少しこんな風にアニメな感じで描かれてたら、僕らに近いものに感じませんか?中身は変わってない、でも、とっかかりができた。つまり「アニメ調のカバー」という「翻訳言語」によって、物語へのアクセス回路が開かれるわけです。こういう試みは、本のカバーだけではありません。例えばこんなのはどうですか。
ご存知、源氏物語をコミック化した「あさきゆめみし」ですね。全ての受験生の古典へのハードルをグッと下げる、神業のような「翻訳」です。
このように、本体としての物語を作っている「言葉」が時間に捉えられても、その時代時代の「言語」へと、翻訳を通じてアップデートしていけば、その物語の根幹の部分が失われず、新しい世代へと引き継がれていく。過去の偉大な物語が、単なる骨董品であることをやめて、現代に生き生きと蘇る。これらは本当に素晴らしい試みです。
3.翻訳不可能性としての「偉大な物語」
政治や省庁でもこれが必要だったんです。つまり「翻訳言語」を使うことです。政治や官僚のみなさんは、しばしばメディアや我々一般国民から軽々に批判されますが、実際には彼らは本当に優秀な人々です。僕の教え子の中にも何人も官僚になった人物がいますが、どの学生達も強い使命感と倫理観を持って、我々の生活を支える公僕として生きることを決意した人たちでした。つまり、日本の政治や官庁にも、
1. コンテンツ(物語)= 人材がないわけではない
2. 翻訳しようと志した人物がいなかったわけでもない
3. ただ、コンテンツが省庁の垣根を越えて流通するために必要な、「翻訳言語」を、これまで見出せていなかった
これに尽きるんです。
でもここで小説の話に少し戻ると、偉大な物語は、その偉大さゆえに翻訳が極めて難しいのも事実です。あまりにも作者自身が偉大な「翻訳者」であるために、後世に出てきたどのような「翻訳者」たちも、作者以上にその物語をうまく伝え切るのは、なかなか難しいわけです。
例えば、難読を持って知るジェームズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を例に取ってみましょう。ご存知ない方のために簡単にお伝えすると、冒頭の文章は、物語最後の文章の「途中」から始まっています。言ってる意味が分かりませんよね。こんな感じです。
川走、イブとアダム礼盃亭を過ぎ、く寝る岸辺から輪ん曲する湾へ、今も度失せぬ巡り路を媚行し、巡り戻るは栄地四囲委蛇たるホウス城とその周円。
『フィネガンズ・ウェイク』(訳 柳瀬尚紀)
「川走」て。この一文を読んで、「ああこれはついに俺には分からない」って一度は観念しました。最終的に頑張って英語の方で読みましたが、英語を読んだあとこれに帰ると、柳瀬先生の狂気じみた翻訳力に改めて敬意を感じます。
『フィネガンズ・ウェイク』は、あまりにも極端な例ではありますが、多くの傑作文学は、その文学的意匠があまりにも複雑すぎて、他言語に訳すことができない部分を包含します。こうした「翻訳不可能性」というのは、その物語が偉大であれば偉大であるほど、高い壁として読者や翻訳者の前に立ちはだかります。
官庁に横たわる「物語」や、大企業を駆動させている「物語」は、まさに大文学と同じ、「翻訳不可能性」に近いものを抱えています。官庁が縦割りで硬直し、名だたる企業が「大企業病」にかかってみるも無惨な状態に陥るのは、時代の流れをうまく取り入れた「翻訳言語」を見出せないからです。
4.デジタル庁とは、その存在自体が「翻訳言語」である
そんな中で出てきた「デジタル庁」だったというのが、今日の冒頭で書いたことです。もう一度記事を引用しますね。
この中で、省庁間のやりとりの難しさが、こんなふうに書かれてます。
今までは、それぞれの省庁が自分の領域の法律や規制のシステムを作っていたので、となりの省庁のことはもちろん、となりの課のことも実はよく分かりませ〜ん状態でした。
(上記記事より引用)
「それぞれの省庁が自分の領域の法律や規制のシステムを作っていた」というのが、ここまで書いて来たことそのままだということは、お分かりいただけると思います。その中では、おそらく本当に高度な内容の「物語」が、優秀な人々によって作られてきた。でもそれはあまりにも専門性が高く、複雑に作り込まれた物語のせいで、ほんのわずかな時代の流れで、掘り起こしたり流用したりするのが難しい、骨董品へとなっていくような過程を、これまでは経て来たのだろうと推測されます。
そこに「横串」を通そうというのがデジタル庁、再度上の方で引用した文章を取り上げます。
そこで、全省庁に「デジタル」という横串を通すことで、省庁起点でもなく、法律起点でもなく、システム起点でもない、国民起点のサービスを提供することを目指すのが、私たちデジタル庁です。
(上記記事より引用)
大事なのは、デジタル庁は、これまでの試みとは違って、デジタルという「翻訳のための言語」を利用すると、当事者自らが強く意識している点です。これまで「横串」を通せなかった理由は、各省庁が自分たちの言語、すなわちここにおいては「日本語ベースの物語」へと固執した点にあります。
でもここに「デジタル言語」「デジタル思考」を中心に物事を考える省庁、つまり「日本語ベースではない物語」という、どの省庁からも分離した言語を利用する省庁がついに現れました。おそらく、この形でないと、日本の省庁を横断することのできる「翻訳言語」は、永遠に現れなかったでしょう。
この試みがうまく行くのかどうかは、まだ数年、あるいは10年以上見守らなければならないと思います。でも、ようやく日本の中心近くに、僕ら一般の人間でも期待を持つことのできる存在が立ち上がりました。この「横串」を突き通して、今度は省庁さえも飛び出して、日本の企業にある優良な発想や人材を、国家の運営という「最大級に大きな物語」へと還流する流れを作ってほしいと強く願うのです。その先にしか、日本の未来は存在しない、そう思うからです。