
貧乏性とは、常に値段でのみ判断する症候群である
中間的な所得の半分に満たない家庭で暮らす18歳未満の割合「子どもの貧困率」は18年時点で13.5%に上る。新型コロナウイルスによる危機は非正規など不安定な雇用で働く人に追い打ちをかけた。小売業など職種によっては親が在宅勤務できず、長期の休校中、子どものケアが十分にできなかった家庭も多い。
全国の児童虐待相談対応件数(速報値)は1~5月、前年比で1割増えた。切れ目なく子どもを見守るには学校や保育園といった現場のほか、厚生労働省や文部科学省、警察庁など省庁間の連携も鍵となる。コロナ禍を機に、子どもの貧困や格差の問題にもっと目を向ける必要があるだろう。
大っぴらに言う話でもありませんが、幼少期、私たち家族は父親の暴力から緊急避難し、数年ほど母子生活支援施設で暮らす貧困を過ごしていました。
ただ、私と妹は貧困を貧困と思っていなくて、畳6畳、風呂無し、共同シャワー、共同トイレの寮生活がとても楽しかったものです。
この世のものとは思えない大きいゴキブリがいました。
晩ご飯は、だいたい半額シールが付いたスーパーの惣菜か、吉野家の牛丼でした。近所のイズミヤまで走って買いに行っていました。
ラッキー池田の格好をした寮長が「サンタさんだよ」とプレゼントを渡してくれました。(4歳の妹はその瞬間、サンタはいないと気付いた)
どなたかの好意のおかげで阪神広島戦を寮の皆と見に行ったら、NHKが取材に来ていたので、カメラに向けてピースしました。ちなみに、その日の夕方のニュースで「試合中、恵まれない子供たちが野球を観戦しており…」と報じた瞬間、私のピース顔がアップで映る…というオチ付きです。
お風呂が無かったので、歩いて500メートルほどの場所にある銭湯に行っていました。リンスをワックス代わりに付けて流さず帰ったら、オカンからクソほどしばかれました。
そう言えば、寮生にはいろんな人たちがいました。些細な喧嘩がキッカケで上級生から木刀で後頭部を割られ(すぐ救急車)、学童保育で遊んでいたら突き飛ばされて将棋盤の角に頭をぶつけて大量出血(すぐ救急車)、態度が生意気なだけで滑り台から突き落とされ顔面強打(すぐ救急車)。
なんやかんやで今から30年も経過すると、全てが懐かしいです。確か、木刀で後頭部を割られた時は、顔面血塗れになりながら、物干し竿で上級生をぶっ刺した記憶があります。子どもなんで、もちろん刺さりませんけど。
なんやかんやありまして、こうした「貧乏」からは多少脱した暮らしができるようになりました。ところが、数年間の「貧乏生活」が私の性根に根付いててしまい、25年も「貧乏性」から抜け出せませんでした。
今日のお話は「貧乏性」についてです。
染み付いた「安さこそ全て」マインド
①けちけちして大らかになれない性質。②細かいことにくよくよする性質。
「貧乏性」を辞書で牽引すると、このように表示されます。つまり、精神的に卑屈なんですよね。私の場合は特に①のケチケチでした。
「ケチケチしている」とは、要はお金の出し惜しみであり、物事の価値判断が安さでしかない状態を指している、と総括しています。
例えば、お腹が空いていても「あと1.5時間すればスーパーの惣菜が半額になるから」という理由で21時半まで晩ご飯を我慢する。でも、お腹が空きすぎてドカ食い→お腹いっぱいになって24時に寝る→太るの無限ループが繰り返され、しまいには尿管結石となり救急車で搬送されました。
300円のうどんと900円の天ぷら定食を見比べて「はなまるうどんなら素うどんが100円だからもったいない」という理由で天ぷら定食にしようと思いきや、「よくよく考えたら900円って高くない?」と思い直し、食べたくもないけど安いという理由で700円のラーメンを選びました。
どうせお酒を飲むならロング缶が安くつく、どうせ酔えるなら第3のビールが安くつく、どうせ寄せるなら度数の高い焼酎が良い…と酒沼にハマってしまい、毎週末は泥酔→二日酔い→迎え酒を繰り返し、大量を悪くしてしまいました。
ドラッグストアでは見たことが無いけど、安いという理由でPBを買っていました。効能が良いとかコスパが良いとか、そういう理由では無く安いからです。「競合の商品もそんな大差無いって」とか思っていました。
貧乏性は、私に「安さこそ全て」という価値観を植え付けました。数万円もする洋服なんて買う必要が無いと思っていたし、数万円もする食事なんて胃袋に入れば同じだと思っていました。
これを、常に値段でのみ判断する症候群といいます。
「貧乏性」が脱出できた理由
「貧乏性」脱出のキッカケは嫁です。実はロシアの血が4分の1入っているクォーターで、良い家の子です。良い家の子なので、お金の価値が分かっていました。
値段が「高い」「安い」だけで判断していた私にたいして「そうじゃねえだろうが」と何度も叱ってくれました。
例えばタクシー。例え疲れていようと、"もったいない"という理由でタクシーは使わず公共交通機関を乗り継いで帰っていました。タクシーを使えば数千円かかりますが、公共交通機関なら500円程度です。
「タクシーは金持ちの乗り物」と嫁を諭すと、私は逆に諭されました。
「歩き疲れてクタクタなのに、さらに移動で人混みにまみれて数十分も立ったままなんて嫌だわ!」
「私はタクシーで時間と体力を買ってんの!」
ハッとしました。公共交通機関なら40分はしますが、タクシーなら10分程度です。立ちっぱなしで、いろんな人と押しくら饅頭するぐらいならタクシーの方がストレスフリーです。
他にはちょっと高い夕食。「こんな値段するの?」「ボッタクリちゃう?」「家で作ったら10%ぐらいの材料費やろ」と小言を言っていると「お前を連れてきた意味が無いわ」と面罵されました。
「私はこの静かな空間でゆっくりしたいの! ファミレスも好きだけど、ガチャガチャうるさい!」
「値段じゃなくて味を楽しめ! 味を楽しんだら、目で見えないものを感じなさい!」
ハッとしてグッときました。確かにデニーズとかサイゼリヤとか美味しいんですけどうるさいんです。この前なんか、ヤンママが店内で号泣しながら離婚してやるって泣き叫んでましたからね。それを背景に食べるピザのマズいことよ。
5000円払って静かに美味しい飯が食えるなら、それにこしたことは無いという理屈は体験すると分かります。静寂の中で食べ物を噛むと、その音まで聴こえるんですよ。ラッパ吹いていない球場で響く打球音みたいなもんか。
「安さ」は大事だけど「安さ」だけが価値じゃ無いと気付けたのは、嫁と一緒にイオンへ買い物に行き、トップバリュ(PB)ブランドの3袋98円の焼きそばを買ったことです。焼きそばを焼こうとしたら、ものの数分で麺はバラバラになり、「元焼きそば」を食卓に出してしまいました。嫁は慰めてくれましたが、ものすごく惨めな思いをしました。
こうした「事件」があって、少しずつ「安さ」だけじゃなく、「品質」を見るようになりました。もちろん両方のバランスが取れていれば良いのですがそうでなければ品質を優先するようになりました。
それは服もそうです。遊ぶ場所もそうです。もちろん「良いところにしか行かない」という意味ではありません。サイゼリヤ大好きです。丸亀製麺よく行きます。ユニクロ大好きです。でも、それだけだと視野が広がらないと嫁に調教されました。
何のための「お金」なのか?
お金は何のためにあるのか。
もちろん物・サービスを買うためにあるのですが、貧乏性の私は「とにかく安く買えれば良い」と思っていました。今では「良い効能・効果を期待して買いたい」と思っています。
すなわち、ステーキ肉を買うにしても「グラム単位で一番安いの」ではなく「嫁が笑顔になってくれそう」「脂身は少なく」「赤身で柔らかい」など情緒的価値や機能的価値で考えるようになりました。その結果、グラム単位で高かったとしても「嫁が笑顔になるなら安いもんや」と思えるようになりました。
貧乏性をケチケチと表現しましたが、ただ目的も無く安さを至高の価値と崇めるよりも、より良い贅沢をするためにケチることも悪く無いと考えるようになりました。
特に、デコムでインサイトを学び、JX通信社に転職してマーケティング業を実践するようになってからは「金で交換できるなら金で買う」「安物買いの銭失いになってはならない」と肝に銘じるようになりました。
会社のお金だからこそ「安さこそ至高」ではいけません。いや、もちろん安さは重要なのですが、その結果どのような成果を出すかが重要です。CPAは安いが良いに決まっていますが、そのおかげでCV数が増えないのはサービスのフェーズによっては「その選択は違うだろうな」と考えます。
もし貧乏性から脱出できなければ「この人はCPAだけ追い求めて、ぜんぜん獲得ユーザー数を増やさないな」「この人は予算を消化できるけど、予算をくれとは言えないんだな」と判断されていたでしょう。
良いか悪いかの判断は難しいですが、自分がそうありたいか否かで問えば間違いなく否です。その意味において嫁には本当に感謝しています。というわけで24日は会社を休んでデートしてきます。
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