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ニューノーマルの「化粧」はどこへゆくのか #会えない時代になぜ装う

お疲れさまです。uni'que若宮です。

日経新聞で資生堂の魚谷社長がこんな問いかけをされていました。

「化粧とは何か、何ができるのか」「化粧が私たちにもたらす価値とは何か」

ということで今日は、(コロナ以降のニューノーマルな)「化粧」についてちょっと考察してみたいと思います。(化粧をしない素人の考察なので色々思い違いが多いかもしれないですがご容赦下さい…いちおう何人かヒアリングしました。)

化粧の価値は「美」?

「化粧が私たちにもたらす価値とは何か」?

この問いへの定番の答えは、「美」というものかもしれません。

しかし、そもそも「美」というのはかなり曖昧な価値です。

たとえばかつて日本の女性は「おはぐろ」をつけていました。わざわざ化粧でそうしていたのですから、当時の人々は黒い歯にある種の「美」を感じたのかもしれませんね。しかし現代でおはぐろをつけているとむしろ不気味だと考えられるでしょう。いまでは歯は白ければ白いほどよいと考えられているようで、芸能人などは高額なお金をかけ、むしろ不自然なほど歯を白くしています。

「美」は一般に思われているように普遍的・不変的なものではありません。「美術」におけるキュビズムやフォービズムのように、最初は「醜」扱いされたものが、「美」の価値観自体を変え、拡張してしまうこともあります。所変われば、そして時代変われば、「美」は変わるのです。

「美」から出発してしまうと「そもそも美とはなにか?」という哲学的な問いに投げ込まれてしまうので、いったん横において、「ひとはなぜ化粧するのか?」「化粧の機能とはなにか?」という実践的な観点から考えてみたいと思います。

生きるために、化粧をする?

少し前にこんなCMがありました。初見の方は短いCFなのでぜひ少しみてみてください。

ご存知の方もいらっしゃるかもしれないのですが、このCMは炎上しました。

炎上の原因はコミュニケーションのすれ違いにあったと僕は考えているのですが、とくに「生きるため」という言葉の多義性が問題だった気がしています。

プレスリリースを読む限り、KANEBOさんの意図は「社会的な要請ではなく、実用性だけのものではないけど、化粧っていいよね。自分らしく生きる力をくれるような、そういう何かがあるよね」という感じのメッセージです。KANEBOさんは「化粧」を(「何かのため」から解き放って)自由にしよう、という意図で「生きる」を置いたのに、その「生きる」が「社会に合わせてsurviveするため」という、むしろ隷属的な意味合いに聞こえてしまった。

「生きるために化粧って必要なの?男性や子供はしなくても生きているのに?」「社会全体で女性は『綺麗であれ』『化粧をしろ』『美しくないとだめ』という風潮があるのを後押ししているようで不快」「いくらマスク習慣で化粧品が売れないからって、女性は化粧をしないと社会的に死にますと脅してまで販売促進していいんですか」と違和感を吐き出す女性がネット上で続出。Twitterでは「#kaneboの新CMに抗議します」というハッシュタグまで作られ批判が相次いでいる。

僕はこの炎上にまつわる「すれ違い」の中に、「人はなぜ化粧をするのか?」という問いに対するいくつかの答えが図らずもあぶり出されていると感じました。

①「通勤」的なルールのための化粧

このCMへの反論は #kutoo 運動に似ている気もします。僕自身は化粧をしないのでその辛さをあまりわかっていなかったのですが、この炎上をみると「化粧なんてめんどくさいもん、ほんとはやりたくないんじゃああああ!!」という女性のフラストレーションが爆発した心の叫びな感じもします。化粧については本当に門外漢なのでコメントがアホすぎるとお叱りを受けそうですが、僕の素朴な感想としては「そうなのか…、そんなに化粧ってやりたくもないことなのか…、やりたくてやってる人が多いのかとおもっていた…」というものでした。

「いくらマスク習慣で化粧品が売れないからって、女性は化粧をしないと社会的に死にますと脅してまで販売促進していいんですか」

しかし「脅してまで」という言葉をみると、「化粧」というのは「かなりやりたくないこと」を「社会」に無理やり強制的にさせられているのかもしれません。

「化粧」の「粧」という字は「よそおう」と読みますが、この語源は「よそ」を「負う」から来ているという説があります。「TPO」や「場をわきまえよ」という言葉もありますが、社会では身なりを「自分」勝手にすると問題になる時もあります。たとえば僕は夏25℃を超えると基本短パンなのですが、老舗百貨店の会長と社長の間に短パンで入ったりすると、ちょっと百貨店内をざわつかせてしてしまいます(下図参照)

ルールや慣習にはもちろん意味があります。そもそもは社会の摩擦や衝突を減らすためにつくられた約定ですが、その一方で因習化し過度になると息苦しくなってしまいます。また、ルールは時代によっても変わっていくべきものです。

なので「世の中でこれまでルールとされてかもしれないけど、それって要らなくない?」っていうことも結構あります。たとえば男性にとっての「スーツ」はいまや必須ではなく、この暑さの中ではむしろデメリットが大きい、とカジュアルダウンされてきましたし、コロナ禍で「通勤って要らなくない?」みたいな議論も起こりました。時代が変化しているにも関わらず、既存のルールが押しつけられるとしたら、それはやっぱり嫌ですよね。

このような「因習的要請による化粧」を似たような構造の因習的ルールと入れ替えてみると、たとえば鉄道会社のCMで、

「生きるために、通勤する。」

と言われるような感じでしょうか。「えええまじか、てかそんなんわざわざ言われたないわ!!!」という気がしてきますよね。

②「うた」的な楽しみのための化粧

もちろん、KANEBOさんはそんな主張をしたかったわけではありません。「因習としての化粧」は「ルール」による強制でしたが、そんなに面倒ならルールや因習がなくなればひとは化粧をしなくなるでしょうか?

当たり前だと思っていた日常が、日常でなくなった時、化粧品は「不要不急のもの」と見なされることが多くなりました。確かに、化粧で喉は潤せないし、お腹は満たせません。しかし、化粧は「生きるために必要」だとKANEBOは考えます。
 非日常な日々を日常に引き戻し、日常の中に、想像力をもたらす。自分の中にある希望を引き出す。化粧にはそんな力があると信じています。

「不要不急のもの」という言葉は、コロナ禍でエンターテインメントやアートに対してよく使われました。たしかにアートで「喉は潤せないし、お腹は満たせません」。摂取しないと生理的な意味で死んでしまうこともありません。しかし、それでも僕らはエンタメやアートを必要とします。

それは大雑把に言えば、楽しみであり元気をくれるものです。誰に指図されるでもなく誰かのためでもなく、「ひとが自分自身のためだけにもする楽しみ」、この側面からみると化粧は「うた」に似ているということもできるかもしれません。(弊社の子会社でYourNailというオーダメイドネイルのサービスを提供しているのですが、ネイルも誰かのためというより自分で見てcheer upされるニーズが大きいと実感しています)

人は誰かに強制されずとも、お金や対価を得られなくても、観客すらいなくとも「うたう」ことがあります。それは自分のための「うた」です。

「生きるために、うたをうたう。」

KANEBOが「生きるために、」に込めたかった思いは、このようなものだったのではないでしょうか。

③「料理」的な好意のための化粧

ルールとして社会に強制される化粧、なにもなくても自分の楽しみとしてする化粧。これらを両極としてその間のスペクトラムとして「化粧」はあるのではないか、という気がします。

強制されるばかりでもないけれども、完全に自分のためというだけでもない。「化粧」はもう少ししなやかに他者や社会との関わりの中にある。たとえばそれは「相手に喜んでほしい」「相手に気に入ってほしい」という好意のような、すこしワクワクする感情です。

他者と自分との間にあり、ともに楽しむものという意味では、「化粧」はどこか「料理」に似ているかもしれません。相手に美味しいとおもってもらいたくて頑張って料理する、好意と相手から自分への感情に対する期待を込めた料理。

そして「化粧」を「料理」に例えると、ここにもう一つの「KANEBO問題」が浮かび上がってきます。それは、「女性」というジェンダーに紐付けられたバイアスです。

「男性や子供はしなくても生きているのに?」「社会全体で女性は『綺麗であれ』『化粧をしろ』『美しくないとだめ』という風潮があるのを後押ししているようで不快」

このような反感は、「化粧」が無条件に「女性」に紐付けられていることがもつ、「無意識の圧力」への反発による気がします。(実際、CFでも女性だけが化粧をしているように見えます。もしかしたら気づかなかっただけで男性やトランスジェンダーの方もいらしたらすみません…)

たとえば、このコピーを、

「生きるために、料理をする。」

と置き換えてみるとどうでしょう。化粧ほどは違和感がないのではないでしょうか。なぜならその主体がかならずしも女性という印象は弱まるからです。これは社会の変化によります。

一昔前まで、「男性の胃袋を掴む」とか「花嫁修業」とか、「料理上手」は女性の美徳でした。反対に「男子厨房に入らず」と言われ、「料理男子」はなよっちいとされて、僕の子供の頃は「家庭科」すらしませんでした。いまではそんなことはありませんし、男性だって料理をしますから「生きるために、料理をする。」は「生きるために、化粧をする。」に比べると非対称性が減る気がします。

ただそれでも「料理」はまだ「女性」の方に強く紐付いています。男性は「料理下手」で肩身が狭い思いをすることも、暗黙に「強制」されることもほとんどありませんが、逆はそうではないからです。とはいえ、

「生きるために、料理をする。」

ならCFに男性も入ってきそうですし、それほど違和感ないけれども、

「生きるために、お茶を入れる。」

だったら、いくら「お茶を入れるのは女性への強制ではなくおもてなしの心です」と主張してもやはりやっぱりジェンダー的圧力を感じてしまいます。

「化粧」を、もっと自由に。

以上見たように、化粧とは、社会や他者と自分の間にあるものです。

一方では、自分の意思に関わらずルールとして強制され、面倒なのにやらなければいけないこと。他方では、誰にも頼まれなくても、誰もいなくても自分のためにやる楽しみ。

「化粧」はこの間を振り子のように揺れている

「化粧」をいろいろなものに例えてきましたが、ここでひとつ重要なことを指摘しておきたいと思います。それは、「化粧」の「化」が「変化」の「化」であること、化粧の特徴は「変えられること」だということです。

化粧は整形ともちがい、短い時間で変化(へんげ)できるものです。きっちり「盛る」こともできれば、シックにすることもあり、そして数分で「素」に戻ることもできる。好きなときだけ、その時の気分で変われる、というのは「化粧」の大きな価値だと思います。

だからこそ、「通勤」のように強制でいつも「やらなければならないもの」になったり、自由にできなくなってはいけないと思うのです。したい時には楽しめたらいいし、面倒だなあという時はしなくてもいい。してはいけない、ということもない。固定されず、ふわふわ移り替われるのが「化粧」ならではの価値ではないでしょうか。

リアルに会うのが減ると「化粧」の機会や重要性が減る、といいますが本当でしょうか?オンラインミーティングしかなくてもきっちり化粧をする人もいるでしょう。しかし、短時間のミーティングにわざわざ化粧をするのが面倒くさいときには「フィルター」で済ませるかもしれません。

カメラフィルターは、「オンライン社会」においてお手軽に「化粧」する機能だともいえます。自分でわざわざ時間をかけて化粧しなくても、一瞬でそれなりの自分になれる。さきほどの「料理」とのアナロジーでいうなら、ちょうど「出来合い」や「冷凍食品」のようなものかもしれません。もし、リアルでも一瞬でON/OFFができて、肌への負荷も低い化粧があれば、ひとはリモートワークでも「化粧」したいのではないでしょうか。(FaceAppの流行をみれば男性だってしたい人多そう)

「料理」もまた「強制」から「楽しみ」までの振れ幅をもっています。僕自身、面倒だな、、という時とちょっと凝ってみるか、という気分のときもあります。
しかし「料理」は「手作り」以外のいろいろな選択肢ができて自由になりました。「ポテサラ」や「冷凍餃子」に怒る人もたまにいるようですが、保守的因習的な人というのはいつの世もいるものです。とはいえ、メールよりは手紙の方が心がこもっているといつまでもメールを使わないことが「文化を守ること」だとは僕は考えません(むしろ、いろんな価値のmixがあってこそ文化は文化になると思います)

そして「料理」や「見た目」以外にも女性が発揮できる価値はたくさんあります。そういうチャンスも活かすために、忙しければ外でごはんしたっていいし、出来合いや冷凍もうまく使い分けつつ、そのおかげで時間の余裕ができたらときどきは時間をかけて料理を楽しめばいい。

化粧もそうだと思うのです。より簡単な化粧の手段も増えるけど、大事な人と久々に会う時には今までよりもしっかり化粧するし、自分ケアの化粧も増える。

そしてそれは必ずしも女性だけの義務でも特権ではありません。料理と同じく男性が楽しんでもよいのですし、男性のほうが得意になって料理を振る舞うように女性にメイクをしてあげる、というのだって素敵ではないでしょうか。

「強制」でも「面倒なもの」でも、「女性だけ」のものでもなく、バーチャルも含めていろいろな化粧のあり方がうまれ、「化粧」がもっとこれから自由に、軽やかになっていくといいな、と思います。

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