ポスト資本主義のための「シェア」再考 〜占有か共有か、競争か共創か、それが問題だ。
お疲れさまです。uni'que若宮です。
今日は「シェア」という言葉について書きたいと思います。
「シェア」は「市場占有率」?
最近ふと不思議に思ったことがあります。
「シェアリングエコノミー」が言われて久しいですが、みなさんは「シェア」という言葉、なんて訳しますか?
「シェアハウス」や「ライドシェア」などなど。多くの方がシェアを「共有」と訳すと思います。
ですがより古くは、ビジネスにおいて「シェア」という時、それは市場の中に占める割合を指していて、この場合には「市場占有率」と訳すんですよね。
「共有」じゃなくて「占有」なのです。
これ、よく考えてみると不思議だなあ、と。
元の言葉はmarket shareとかshare of marketだと思うので、そのままニュートラルに訳すなら「市場分担率」のような感じでしょうか?
日本語ではそれが「占有」率になっている。ここには旧来型の資本主義のもつ、2つの傾向が表れているような気がします。
まず、「占」という字です。これはたとえば「一人占め」のように、「占める」という意味で使われます。「市場分担率」なら単に分担の度合いを表す客観的指標でしかありませんが、「占有率」と言われるとそれを高めたくなり「なるべく多く占める」のを目指すようになるでしょう。
そして次に、「有」という字。ここにあるのは「所有」の感覚です。「市場の4割がうちのシェアだ」という時、「マーケット=顧客」をあたかも「自分たちのもの」のように所有する感覚が生まれます。(こうした感覚から「囲い込み」や、はたまた「シャブ漬け」みたいな言葉が出てしまうのかなという気がします)
「占有」のゲーム、資本主義
「モノポリー」というゲームに象徴されるように、旧来型の資本主義の本質は「独占」を目指すゲームです。
以前こちら↓の記事でも引用しましたが、ルイ・ブランは19世紀の半ばに、
と言っています。資本主義はそもそもが「占有」を目指したゲームなのですよね。
たとえば「特許」や「商標」なんかのライツに関する法もそうですが、本来はみんなで使えるものだけども法的に「他者を締め出す」ことによって「占有」できる権利を認める、という仕組みで、これは実は「シェアリング」とは反しているのです。
ライツの保護にはもちろんメリットとデメリットがあります。メリットは、発明者の保護がなされることと、そこで保護される利益をインセンティブにして発明が積極的に生まれることです。せっかく苦労して発明してもすべてパクられて報われないのなら誰も発明をしなくなってしまいますから。その一方で、ライツの保護が、社会全体の変化の障害になることもあります。特許で保護されているためにがんの先端治療薬が高額なままで本当は助かる命が助からない、というようなことも起こります。
こうした「占有」のデメリットに対し、イーロン・マスクがテスラの特許を公開してしまったり、「オープンソース」のようにはなから「占有」をしない、というあり方も生まれています。
僕の尊敬するオードリー・タンさんは「自分の著作をもたない」と決めているそうなのですが、それは本を書いてしまうとライツが発生してしまうからで、「自分自身をオープンソースにしておきたいから」だと言います。かっけえ…
また、企業が利益を「占有」しようとすることはしばしば「搾取」を生み出します。従業員を搾取して人件費をさげれば、自社の利益は高まりますし、地球への負担を気にせずに資源を搾取すれば、自社の利益は高まります。GAFAのように莫大な利益を世界中から集めながら、タックスヘイブンに本社をうつして「減税」すれば自社利益が最大化できるのです。(それは社会への還元をせずに利益を「占有」することではないでしょうか)
しかしこうした「占有」は一部の強者だけをさらなる強者にするだけで、結果として社会全体としてはサステナブルではないよね、ということが明らかになってきたので、SDGsのような目標がつくられたわけです。
SDGsの時代には、企業は自社の利益を確保しつつも、それを自分たちで溜め込むのではなく適切に社会に「分配(シェア)」することが重要です。
「競争」の論理
資本主義は「占有率」を高めていくゲームだけれども、一方でそれを禁じる「独占禁止法」というのがあります。
これ、一件矛盾するようにも思えますよね。なるべく沢山占有しようぜ、といいながら、でもしたらだめだぜ、という。この牽制関係が何を目指しているか、というと「競争」の保護なんですね。
「独占禁止法」や「ドミナント規制」って、サッカーにおけるオフサイドとかハンデ戦みたいなもので、ワンサイドゲームになってしまったり「敵なし」という状態だと適切に「競争」ができなくなるから、強者を制限することによって「競争」状態を守ろう、というわけです。
長い間資本主義では「競争」がよいことだとされてきました。たしかに「競争」のおかげで成し遂げられたものはたくさんあります。「企業努力」によって新しい技術が開発され、便利な生活がより安価に享受できるようになりました。しかし「競争」のデメリットもまた沢山あったのではないでしょうか。
ビジネスが「競争」である以上、他の企業は基本的に「敵」になります。また顧客や売上が減ることは「敵に奪われた」「負けた」という感覚が強くなります。
結果として、企業の活動が顧客の生活を無視した「戦争」になり、損害をもたらしてしまう例も枚挙に暇がありません。押し売りや不正販売にはじまり、競合からの乗り換えを優遇し「解約金」が設定された素人には理解できないような複雑すぎる料金プランや、不要なほど密につくられたコンビニ(過密な競争によりオーナーが搾取され疲弊し、廃棄も増える)などなど。
ビジネスが「戦争」だとするなら、「シェア(占有率)」が低下することは顧客を取られることであり、敗北だということになります。しかし、それは何への敗北でしょうか?あるいはシェアをあげることは、何への勝利なのでしょうか?本来、顧客の幸せを目指すのであれば自社が満足させようと、他社が満足させようといいはずではないでしょうか?
「競争」から「共創」へ
「競争」から「共創」へ、という標語をよく耳にします。
しかしそれを掲げながら、やはり自社の利益ばかりを考えている企業は少なくありません。「グリーンウォッシュ」や「SDGsウォッシュ」と言われるように、対外アピールのバッジをつけながら自社利益の最大化しか考えない事業計画を立てている企業や、「オープンイノベーション」といいつつベンチャーからノウハウだけ取り入れようとしている大企業、リスクを起業家に押し付ける非対称な契約を結ぶ投資家とかも、時々耳にします。
「共創」とはほんとうの意味では、資本主義の「占有」や「競争」のゲームそれ自体を問い直した先にあるものではないかと僕は思います。あなたが所属する企業は競合他社を「敵」としてではなく、顧客をともに幸せにする「パートナー」と思えているでしょうか?
たとえば「シェア」を「市場占有率」ではなく「市場共有率」と訳してみるだけでも少し変わるかもしれません。「占有」するのではなく、顧客や利益やリソースを共有する企業の方が評価されるような考え方です。(たとえば大企業がその従業員のリソースを共有するとか自社の固定資産を無償で共有するとか。これは売上の「占有率」から考えるとマイナスですが、「共有率」としては高まります)
もしそれがなされれば過剰な競争はなくなって無駄な消費は減り、社会全体として資源の利用は最適化されるでしょう。本当の「シェアリングエコノミー(=共有経済)」とはそうした「脱・競争」の先にあるのかもしれません。
「競争」は、全体資源が潤沢なうちはまだよいのですが、ゼロサム的になると変質し、つぶしあいになってしまうところがあります。誰かが増えると誰かが減るからです。顧客の奪い合いもそうですが、もし1を1と考えて奪い合わず、複数の企業で共有できれば、資源はゼロサムでなく、多重化できる可能性があります。
こうした場合の「シェア」は「所有」的概念ですらないので、「共有」という言い方もちょっとしっくり来ないところもあります。「シェア」そのものが「分ける」という感覚なのに対して、より共同体的にいうなら「マーケット・シェア」よりも(クリエイティブ・コモンズ的な)「マーケット・コモンズ」という言い方もできるかもしれません。
「分け前としてのシェア」から「みんなのためのシェア」へ。
ちなみに「シェア」という言葉には「株式」という意味もあります。これも、元々は会社のオーナーシップや配当など「分け前」があることから「シェア=株式」を表しているのでしょう。
先日、パタゴニアのシュイナードさんが一族の資産を手放し、株式を環境のためのNPOに譲渡するというニュースがありました。
「今や、地球が私たちの唯一の株主です」とシュイナードさんは言います。これは(いまだ見ぬ宇宙人のための利益分配だめを考えなければ)究極の「シェア」であり「コモンズ」だと言えるかも知れません。
僕は資本主義がすなわち悪だとは思いません。それはたしかに優れたシステムで、社会主義や共産主義と比べてevilだというわけではないと思います。しかし一方で「占有」や「競争」の原理や経済資本だけのリターンを求めるままではSDGsは成し遂げられないとも思うのです。
企業は「社会の公器」である、という言い方がされます。その「シェア」は一企業や株主のためを超えて、もっと大きな「共」として考えられていくようになるのではないでしょうか。
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