なぜ、現代美術純粋培養ではない僕が「さいたま国際芸術祭2020」のキュレーターになったのか。
前回のエントリーでも少しお話しましたが、キュレーターとして大凡2年ほど関わってきたものの、春開催予定だったのがコロナ禍で開催無期限延期となり凍結していた『さいたま国際芸術祭2020』が、遂に開催の運びとなりました!
一時は、(もう作品もできているのに!)開催中止という最悪の事態も考えられ、みんなで苦悶してましたが、まずは開催できることになって本当に良かったです。
とはいえ、感染拡大防止の為に、開催規模や形式は大きく変わっています。オンラインでも芸術祭を行う形になりました。
家でも見れる芸術祭ぜひ楽しんでほしいです!
オンラインは2020年10月3日(土)-11月15日(日)[44日間]
オンサイトは、2020年10月17日(土)-11月15日(日)[30日間]
です!
日経新聞でも報じて頂いています。
海外アーティストや市内在住の画家など32組の作品を公開する。旧大宮区役所では実際に区役所で使われていた案内看板や配線などをモチーフにした作品も展示する。一階の入り口部分は案内所や床、柱、吹き抜けの天井などをカラフルに彩った。人が密集しやすいパフォーマンス型の作品は公開を見送った。
芸術祭のテーマだった「花/flower」も引き継いだ。遠山昇司ディレクターは「花は生命力の象徴。祈りや回復の意味もある。作品を通して明日も生きていけるという感覚をもらった」と話していた。
この日経COMEMOという場所をお借りして、まさに今、会期真っ只中の『さいたま国際芸術祭2020』について、僕がキュレーションさせて頂いた、5作品/5アーティストについて連載的にご紹介させて頂きたいと思います。是非お読みいただきつつ、会場にお越し頂きたいと思います。
なぜ、現代美術純粋培養ではない僕がキュレーターに?
『さいたま国際芸術祭2020』は大きく3つのエリアに分かれています。
①メインサイト (旧大宮区役所)
②アネックスサイト (旧大宮図書館)
③スプラッシュサイト (宇宙劇場、大宮図書館、埼玉会館、鉄道博物館 ほか)
メインサイトが、所謂トリエンナーレのコアとなるようなメイン展示、
アネックスサイトが、さいたま市民を巻き込んだ参加型アート
スプラッシュサイトが、より「まち」に芸術祭を開いていくような作品
のイメージです。私はこのメインサイトでの3作品、スプラッシュサイトの2作品を担当しています。
今回、トリエンナーレや芸術祭にキュレーターとしてお声掛け頂き参加させて頂いたのは始めての経験なのですが、生粋の現代美術畑でキャリアを積んで来た訳ではない私にお声がけ頂いた事にはやはり意図がしっかりあると感じた為、その意図に沿ったキュレーションをしなくてはと考えたことで、もともとはメインサイトのキュレーションを前提のお話でしたが、むしろスプラッシュサイトに関わって行きたいと感じ、このバランスになりました。
というのも、私がキュレーターとしてオファーされた背景には、やはり問題意識があったからとの事。
①今の日本のトリエンナーレは世代交代が進んで居ない問題
②純粋な現代美術畑のメンバーで動かしていることで余白がすくない問題
前回開催の「さいたまトリエンナーレ」のディレクターを務められた芹沢高志さんを含めてその問題意識があるとのことで、今回のディレクターは映画監督を本業とする遠山昇司さんになったという背景を聞きました。
確かに、日本のトリエンナーレや芸術祭を考えると、北川フラムさんや芹沢高志さんなど、押しも押されもせぬレジェンドに託されている事が多く、またレジェンド過ぎて、ご本人達は早く後進に譲りたいのに世代交代が進まないということはあったのかもしれません。今回、映画監督という異業種であり30代の遠山昇司さんがフェスティバル・ディレクターを務めることでその課題を刷新していこうとい意思を強く感じました。
(本記事の文中には、参加キュレーター陣のご紹介も)
そんな遠山さんが、ある意味で新しい芸術祭を作っていくんだという意思の元に選出されたキュレーター陣はたしかに、芸術祭としてはかなり若い世代になり、そして多種多様なバックグラウンドの人が集まっていてこれは面白いことになりそうだと感じました。
勝手に自認した役割は、オルタナティブ&インクルーシブ
もちろん、現代美術界でバリバリとキャリアを積んで来た人もいるなかで、
MOTIONGALLERYという現代美術に限らない様々な文化や表現を”みんな”につなぐ触媒となる場所を運営してきた自分に課された役割はきっと、
・MOTIONGALLERYで見てきたオルタナティブな視点からみた「現代アート」を提示すること
・さいたま市の運営である以上、市民とのタッチングポイントを増やせる様なプロジェクトにすること
かなあと思いました。そうすると必然的にスプラッシュサイトのキュレーションにも軸足を置くことになりました。
「花」とは共同幻想である
◎「花/flower」というテーマに対して
キュレーションする上で核となる、芸術祭自体のコンセプトは、遠山さんから「花/flower」であると示されました。
このコンセプトを各キュレーターがどの様に解釈をし、キュレーションしていくのか、それを考えることが最重要になります。
「花」を考えて行くと、カラフルで祝祭感がありみんな好きなものでありと、とてもハッピーで自由なイメージが最初に飛び込んでくるかなと思います。しかしながら一方で、現代アートと「花」を結びつけて考えると結構なトラップでもあるなというのが最初に僕がコンセプトを聞いた時の印象でした。
「アートにふれる事で、歩みを止めて道端の花も美しいと感じられる感性を養おう」
「アートだアートだと小難しい事言ってるんじゃ駄目だよ、人が捏ねくり回したものより、自然に生きる花がもっとも美しくてアートだよ」
よく聞く話ではありませんか?
そう、結構、アートと花は、芸術の相対化だったり対立軸にすごくよく登場する概念なのです。そして僕のあくまで個人的な見解としては、アートとはその様な牧歌的な感覚を打ち破らなければならないものだと思っています。そんなアートの本質を突きつけられ兼ねないものをテーマに据えて作品を作るなんて、ある意味「獅子身中の虫」の様な取り組みだなあと思いました。
そんななか、「花」という言葉から生まれる第一印象からは離れ、深ぼって考えると、花街という言葉の様にセクシャルな言葉として使われることもあるし、お祝いだけでなく葬儀のときにも花は贈られる様に、「死」のイメージを纏うときだってあることに思い当たります。
時には「生」、時には「死」、時には「性」と、まさに人生の悲喜交々の感情を託されている花。しかも、「花」というとみんな共感した気にとてもなるのに、よくよく話してみると、ある人は「薔薇」、あるひとは「向日葵」、ある人は「チューリップ」を思い浮かべているかも知れません。
そう考えると、「花」という一言は、その多様性がゆえに、聞いた人はその感情やイメージを其の場の人たちで一瞬で共感・共有した気にすごくなるマジカルなワードなのにも関わらず、実は誰一人として同じ感情・同じ視覚イメージを重ねていないかもしれない、不思議なワードなのではないかと考える様になりました。
そう考えると、吉本隆明が言った意味とは少し違いますが、花とは「共同幻想」のアイコンと捉える事ができるかも知れない。そんなふうに考えました。
そこで、私は『さいたま国際芸術祭2020』でのキュレーションとしては、
・世代交代を意識されたキュレーターの人選と合致するようなエマージングなキャリアで、
・各地のトリエンナーレで行われている展示とはまた違った展示になるようなオルタナティブな視点や作品を生み出す
・「共同幻想」というアイデアが想起できる
という3点を感じられるアーティストにお声掛けして行こう、そういうふうに考えて、キュレーションに取り組みました。
その結果、芸術祭に参加頂いた5組のアーティストの作品を、次回からその魅力をご紹介していきたいと思います!
頂いたサポートは、積み立てた上で「これは社会をより面白い場所にしそう!」と感じたプロジェクトに理由付きでクラウドファンディングさせて頂くつもりです!