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図書館をネットに広く開放せよ。書物の歴史から学べる大きな意義

図書館には、過去の膨大な「知」が収められています。これらをインターネット経由でもっと気軽に利用できるようにできないだろうか、という議論が進んでいます。文化庁は、各家庭への蔵書のネット送信を可能にするため著作権法改正を進めようとしているようです。

この記事にくわしく解説されているので読んでいただければと思いますが、難点として「権利者側が最も懸念するのは電子書籍ビジネスへの影響」と書かれています。これは確かに問題でしょう。調査研究のために研究者が利用するだけでなく、漫画や小説を無料で読めて嬉しいと思う人も出てくる。だとすれば図書館のデジタル利用は慎重になったほうが良いということになります。

図書館の本のネット配信は進めるべきだ

しかし私は、それでもあえて図書館ネット配信の試みは絶対に進めるべきだと考えています。なぜなら「知」を広く開放することは社会に大きな恩恵をもたらし、文明を前に進ませるからです。それは人間が発明してきた言語や文字、記録装置など知を開く技術が何をもたらしたのかを振り返れば、一目瞭然です。

わかりやすい例をひとつ挙げておきましょう。印刷技術は15世紀にグーテンベルグが発明し、数世紀かけてヨーロッパに広がりました。この印刷技術がヨーロッパに何をもたらしたか。

最も有名なのは、宗教改革への影響です。聖書はそれまでラテン語で書かれ、学のある聖職者しか読めませんでした。しかしマルティン・ルターはこれを「民衆語」であるドイツ語に翻訳し、印刷して流通させ、多くの人に広めたのです。これによって聖書という知を独占していたカトリック教会の権威が薄れ、宗教改革の大きな原動力になりました。

かつて印刷の発明は、閉ざされていた「知」を解放した

印刷が広まる以前の獣皮をつかった写本は、一冊一冊が手書きで書き写されていたので部数がきわめて少なく、完成した本もヨーロッパ各地に点在する修道院の図書室などに収められ、おいそれと読めるものではありませんでした。修道院長に手紙を書いて本を読む許可を得て、それから長い旅をして目的の修道院を訪れ、図書室の机に頑丈につなぎとめられている分厚く巨大な写本を読む。そういう面倒なだんどりが必要で、「知」は厳重に閉ざされていたのです。

印刷の発明は、まさに花開きつつあったルネサンスにも影響を与えました。さまざまな本が印刷され流通するようになると、写本の時代とは本の本質が大きく変わったのです。たくさんの本が分類されるようになり、改訂も系統だって行われるようになり、本の全体を整理して統一的な体系がつくられていったのです。これによって研究者たちは、知の全体を俯瞰的に見通せるような理性的な目を持つことができるようになったということなのです。

印刷によって職人たちの知が認められるようになった

実用書や技術書という分野も生まれました。職人の手技が書籍化されて流布し、これを研究者が手に取ることで、頭の中で考えていた演繹的な思考だけでなく、職人の仕事を学んで帰納的に世界を捉える思考も可能になったのです。たとえばお医者さん。中世の偉い医師はすべて内科医で古い文献を読むことが高尚だと思われていました。いっぽうで外科医は「理髪外科医」と呼ばれて、整髪や洗顔、手術、抜歯まで身体にかかわることなら何でもこなす職人とみなされていたのです。「高尚」な内科医は、手を使う医療行為なんて下賤な仕事だと思っていたようです。

しかし外科医のなかから、自分の経験をもとに古い医学知識に異を唱える人たちが現れました。ドイツ語やフランス語など民衆語に訳された古い医学書が登場していたので、外科医はそれらを読んで「この知識は間違っている」と指摘できるようになったのです。

このように印刷は学術的な論争も活発にし、それまで知識人の枠には入っていなかった職人の知の力も高めていったのです。

「ネットの悪口を言う人」みたいなのは15世紀にもいた

もちろんその当時でも、印刷された本を攻撃する人たちはいました。写本と違い、「粗悪な紙の本の洪水が、道徳を崩壊させている」「印刷なんかにかかわっているのは、教養のない連中だ」

まるで21世紀の現在、インターネットに向けられた非難の矢のようですね。しかし印刷技術は「知」を独占から解き放ち、多くの人びとに開放し、いまにいたる近代文明の大きな礎になったことは間違いありません。

これは現在のインターネットも同じです。玉石混交で、素晴らしい議論のやりとりもあれば、殺伐とした誹謗中傷合戦もある。検索してすばらしい学術論文に行き当たり、知力を高める人もいれば、著作権侵害してるサイトで違法な漫画を読みふける人もいる。

しかし総体としては、ネットによって開かれた「知」は私たち社会を底上げしています。ネットではデマも出回りますが、デマをきちんと否定する人たちもたくさんいる。デマに惑わされる人たちとそうでない人たちとの間の分断という問題はたしかに起きていますが、総体として社会の知にとってプラスかマイナスかといえば、間違いなくプラスでしょう。

かつて「知識人」というのは大学の先生や評論家など、一部の人たちの専有物でした。しかしSNSが普及してからのこの10年、うまくネットを活用している人たちのあいだでは知識量はかくだんに高まり、マスコミや有名人のときに的はずれな言説に左右されずに、この世界を見る確かな目を持とうという意思は広まってきていると私は感じています。これから「知」がさらにオープンにされていくことで、その流れはさらに加速し、確固とした潮流となっていくでしょう。

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