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突然やってきたスモールサークルの時代に気をつけること

パンデミックで世の中が一変する前、大人になるということは即ち、世界が広がることだった。家族だけに囲まれた幼児期から、友達が増え、知らないひとと交流し、海外まで出かけることこそが、成長するということだと当たり前に思っていた。

<移動の制限とコミュニティの変化>

しかし、いまや、この拡大志向は、急激に方向転換を強いられている。物理的な「密」は嫌われるものの、安心して会えるのは心理的に「密」な限られた人たちだ。例えば、食事をするなら少人数、それも気心の知れたひとだけで会う風潮は、しばらく続くだろう。

このように、スモールサークルを中心に廻る生活は、新しいと同時に、どこか復古の香りがする。実際、知り合いのチェリストは、4月以降公演がすべてキャンセルされ悄然としていたものの、最近は、個人宅で親しい友人だけが招かれるサロンコンサートに忙しくしている。まるで、モーツァルトの時代に逆戻りだ。

また、欧州ラグジュアリーブランドを扱う日本社長は、もはや得意先を招待するイベントとして、もはや50人以上集めるガラパーティはできない代わり、10人を最大とする食事会を企画しているという。ここでも、まるで「村」のように、顔の見える・わかる関係が重視されている。

<スモールサークルがビジネスにもたらす影響>

飲食業にとっても影響は大きい。ビヤホールや居酒屋型の大箱は流行らない代わりに、レストラン個室とテークアウトの需要は高まるだろう。

ビジネスにとって、スモールサークルがもたらす機会を捉えるには、より個人に寄り添ったテーラーメードのアプローチが必要になる。ラグジュアリーブランドのような高マージンが期待できない場合は特に、デジタルを組み合わせ、どのように低コストでテーラーメードを可能にするかが鍵だ。

既存のスモールサークルにサービスを提供するモデルもあれば、逆に新しいスモールグループを生み出すサービスも出てくるだろう。

<スモールサークル拡大、私たちは・・・>

さて、新しい機会が生まれる一方で、スモールサークルの席巻は、社会にとって大きな課題をもたらすと考える。分断が進み、下記の記事が指摘するように、「自分(たち)さえ良ければ」という心理につながるからだ。

近代都市の発展は、多種多様の背景が混ざり合い、折り合いをつけながら共存することにより可能だった。この背景には、よそ者同士の薄い連帯感や弱いつながりが欠かせなかった。しかし、強いつながりを前提にするスモールサークルばかり重視されれば、他者排斥に結びつきかねない。

コロナ危機で議論がお預けになった感はあるが、日本は外国人労働者の受け入れに大きく舵を切っていた。

しかし、自分がこれまで知っている世界を再生産するスモールサークルには、異質な他者を知ろうとしたり、受け入れたりする力が弱いと危惧する。日本全体が不寛容な社会に向かわないよう、注意したい。

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